- 東京メディアプロデュース合同会社:動画講座と動画制作キャリア40年
映画の歴史から何を学ぶ
皆さんは昨今、動画といえば何を連想しますか。やはりYou Tubeなどの動画配信でしょうか。
また、カメラなど撮影をしている人は、写真をいつの間にか静止画というようになり対し動画となっているようです。確かにカメラの撮影モードに静止画と動画の切り替えが、今のデジタルカメラでは当たり前になっています。
では、TV番組は何といいますか。動画でなくTV番組か映像と呼びませんか。映画関係者はあくまでも映画と言うでしょう。
TVニュース番組で、アナウンサーは「事件現場の映像が届きました、御覧ください」と言いますよね。同じ現場でも視聴者の撮った「現場の動画を御覧ください」使い分けます。
映画はTVでも映画とい呼びますが、映画専門の配信会社、ネットフリックスなどから配信されると、映画でなく動画と言われます。
動画(映画)と静止画(写真)の違いは何でしょうか。
映画と写真の違いは、両方とも映像表現の形式であるため、多くの共通点がありますが、それらは異なるアプローチを取ることがあります。
まず、映画は時間的な側面があります。映画は、一連の画像のストリームとして、継続的な物語を伝えることができます。一方、写真は、一瞬の瞬間を捉えることに特化しています。写真は独立した瞬間を捉えた静止画であり、ストーリーを伝えるためには一般的に複数の写真が必要になります。
また、映画は音響表現によっても情報を伝えることができます。映画は音楽、セリフ、環境音、特殊効果など、さまざまな音響要素を組み合わせることができます。しかし、写真は音響表現を持たないため、静的な映像だけで情報を伝えなければなりません。
また、映画はカメラの動き、カット、照明、演技など、多くの要素を組み合わせて表現するため、より複雑な表現が可能です。写真は、フレーミング、構図、色、光と影などの要素を組み合わせて表現しますが、映画よりも限られた手段しか持っていません。
最後に、映画は、観客に感情や思考を引き出すための演出手法を使うことができます。
音楽、編集、演技、撮影などを組み合わせることによって、映画は感情的な反応を引き出すことができますが、写真は感情を引き出すことができますが、その反応は映画よりも限定的です。
つまり、映画と写真は、映像表現の形式であるという共通点はありますが、それぞれが異なる特徴を持っています。
映画は時間的な側面や音響表現、演出手法などが強調され、写真は静止画であることや構図や色彩などの表現が強調されます。
映画からテレビ放送、動画の時代と言われるまでの歴史を簡単におさらいしましょう。
映画が生まれたのはいつかご存知ですか。
映画は、1891年にアメリカのトーマス・エジソンによって発明された「キネトスコープ」が、フィルム上に映した機器が始まりと言われています。
その後、1895年にフランスの兄弟ルミエールによって「シネマトグラフ」が発明され、映画の歴史が始まりましたエジソンとルミエール兄弟は、両方とも映画技術の発展に大きく貢献した映画パイオニアであり、どちらが優れているということはありません。アメリカの教科書には映画の発明はエジソンとなっていましが、フランスの方はルミエール兄弟となっています。
映画の歴史的な始まりは、1891年にトーマス・エジソンによって開発されたキネトスコープ(Kinetoscope)という一人で箱型の覗き窓から映像を観る機械でした。
円柱状の筒の上部には、35mm幅のフィルムが水平に巻かれ、手回しクランクで回すことで内部に映像が表示される仕組みとなっています。
特にエジソンは、この装置を商業的に利用し、キネトスコープ・パーラーズ(Kinetoscope parlors)と呼ばれる施設を開設することで、人々の注目を集めました。この結果、キネトスコープは、映画史において非常に重要な位置を占めることとなりました。
当初はエジソン社によって限定的に製造され、後に特許が公開されると、多くのメーカーが同様の機械を製造し、世界中に普及していきました。また、キネトスコープに映画を供給するための映画製作スタジオも誕生し、映画の産業化が始まったとされています。
一方、ルミエール兄弟は、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで活躍した映画製作者であり、映画史上において非常に重要な役割を果たしました。
ルミエール兄弟はシネマトグラフという映写機を発明しました。エジソンの覗からくりてきな視聴方法でなく。現在のスクリーンへの上映と同じで世界初の商業的な映画上映を行いました。
パリで初めての映画上映は、1895年12月28日にグラン・カフェで行われました。日本では明治28年日清講和条約がかわされた年です。この上映会は、ルミエール兄弟が発明したシネマトグラフを使用し、観客はルミエール兄弟が制作した短編映画を鑑賞することができました。
この上映会で上映された映画は、『工場の出口』、『噴水で遊ぶ子供たち』、『カフェの出口』などで50秒ほどの短いショートフィルムでした。これら作品は、映画史上初めて公開された映画として知られています。その後、ルミエール兄弟は、人々が日常生活をしているさまざまなシーンを捉えた短いドキュメンタリー映画を制作し、世界中で映画を上映するためのネットワークを構築しました。
当時の観客にとっては、このような映像を見ることは非常に驚きであり、大きな話題となりました。この映画上映は、パリの文化的中心地であるグラン・カフェで行われたため、パリの芸術家や知識人たちが集まり、文化的な事件となりました。以後、映画はパリの文化に欠かせないものとなり、映画産業は急速に発展していきました。
このパリのカフェでの初の映画上映は、映画の歴史において重要な出来事であり、現代の映画産業の基盤を築く上で重要な役割を果たしました。
日本での上映は、驚くほど早い時期に公開されていた
日本でもルミエール兄弟の映画は非常に早い時期から上映されていました。実際には、ルミエール兄弟が発明したシネマトグラフがフランス国内で初めて公開された1895年の12月28日よりも、日本で公開された時期が早いとされています。
1896年1月25日、東京・神田にある有楽町館で、ルミエール兄弟の映画が初めて日本で公開されました。この公開は、外国人向けの上映会であり、一般の日本人には公開されていませんでした。
しかし、それからわずか1か月後の2月24日には、浅草公園六区にある馬車道館で一般の日本人に向けた映画上映会が行われ、ルミエール兄弟の映画が上映されたとされています。
日本での映画上映は、明治時代に始まりました。最初の映画館は、1896年に東京の浅草に開館した「帝国館」です。
その後も、東京をはじめとして各地に映画館が開設され、映画産業が発展していきました。しかし、当時はまだサイレント映画が主流であり、音声が付いた映画が一般化するのは、1930年代以降のことでした。また、日本の映画産業は、自主映画を中心に発展し、特に戦後になってからは、世界にも通用する作品を多数生み出すようになりました。
なぜ早くから日本での公開がされていたのか
まず、当時の日本は、欧米との交流が活発に行われていた時期であり、外国文化に対する関心が高まっていました。ルミエール兄弟が発明したシネマトグラフは、まさにこのような欧米文化の一つであり、日本でも新奇なものとして受け入れられました。
また、当時の日本では、蒸気船や電気をはじめとする新しい技術が次々と導入されており、近代化が進んでいました。このような社会的な背景もあって、ルミエール兄弟の映画という新しい技術が、日本でも早い時期から受け入れられることになったと考えられます。
どのように公開されていたのだろうか
ルミエール兄弟の映画が日本で上映された当時、一般的な上映方法は、移動映写機(プロジェクター)を使用して壁やスクリーンに映像を投影する方法でした。映画館はまだ少なく、移動映写機を使って興行を行う「巡回上映」が一般的でした。巡回上映では、町ごとに上映場所を移動し、大道芸的な雰囲気で映画を上映していました。このような方法でルミエール兄弟の映画が上映されたことが多かったようです。また、一部の映画館では、固定の映写機を使って映画を上映していたようですが、映画館自体はまだ珍しかったため、映画を上映する場所としては、劇場や講堂、会議室、食堂などが使われていたとされています。
日本への影響は
ルミエール兄弟の映画が日本の映画産業に与えた影響は大きく、以下のような点が挙げられます。
◎技術的な影響
ルミエール兄弟の映画は、映画制作に必要な機材や技術を最初に開発したものの一つであり、その映像技術は世界中に広がりました。日本でも、ルミエール兄弟の映画の上映を見て、映画制作に必要な機材や技術を導入し、映画産業の発展につながりました。
◎映画文化の普及
ルミエール兄弟の映画は、当時の日本社会に新しいエンターテインメントを提供し、映画館が増え、映画文化が浸透するきっかけを作りました。これにより、映画産業は急速に発展し、多くの人々が映画に親しむようになりました。
◎映画制作の基盤の整備
ルミエール兄弟の映画が上映された当時、日本ではまだ映画制作の基盤が整っていませんでした。しかし、ルミエール兄弟の映画を見た日本の映画関係者たちは、映画制作に必要な技術や機材を取り入れ、映画制作の基盤を整備することに成功しました。
◎洋画の導入
ルミエール兄弟の映画が上映されたことにより、日本では洋画の導入が進みました。これにより、日本の映画産業は、世界とのつながりを深め、国際的な視野を持つことができるようになりました。
以上のように、ルミエール兄弟の映画は、日本の映画産業にも影響を与え映画文化の発展に貢献しました。
さらに、日本の映画産業がまだ発展途上であった。当時の日本では、映画館がまだ少なく、映画産業自体が未発達であったため、ルミエール兄弟の映画は、新しいエンターテインメントとして受け入れられたのです。
日本国内での映画撮影は、ルミエール兄弟の映画の上映よりも遅れて始まり最初に撮影された映画は、1899年に横浜で撮影されたアメリカ人旅行家の風景映像で、これは日本で最初に撮影された映画とされ、その後も、外国人による日本の風景や人々の撮影が続きます。
最初の映画会社
日本で最初の映画会社は、1899年に設立された「日本活動写真製作所」です。
この会社は、外国の映画を輸入して上映するだけでなく、自社で映画の製作も行いました。当時の日本で映画製作に必要な機材や技術はほとんどなく自主制作には多大な困難が伴いました。
その後、日本人による映画製作は、1908年に松竹が創業してから本格的に始まり、1910年代には、多くの映画会社が設立され、日本人による映画制作が始まりました。
最初に撮影された日本の劇映画は、1910年に製作された『出来ごころ』または1912年に製作された『金色夜叉』とされています。
1912年に設立された「日活」や、1920年に設立された「松竹」などの映画会社が次々と誕生し、日本の映画産業は急速に発展していきます。1920 年頃までには,国内全ての都道府県で同様の常設館 が出現し,その経済的基盤を支えるに充分な観客層をも獲得することで,映画は全国で普及しました。
また、1920年には、松竹が大規模なスタジオを建設し、日本映画の本格的な製作が始まりました。
そのコンテンツ製作においても,輸入映画だけでなく,芸術として充 分評価され得るレベルの国産の映画作品も登場し,映画製作から興業までの産業全体が成長 を遂げることになる。
蒲田撮影所は旧蒲田村の約三万平方メートルで開設。初期の日本映画を代表する女優の田中絹代さんや、小津安二郎監督らが活躍した。よく知られる「キネマの天地」という言葉は撮影所の所歌に出てくる。
現在の大田区民ホール一帯にあった松竹キネマ蒲田撮影所=大田区提供
当初は無声映画の時代だったが、音の出るトーキー映画が広まると、騒音に悩まされるようになり周囲には工場が並び、東京飛行場(現羽田空港)の完成で航空機も飛んでいた。手狭になったこともあり、神奈川県大船町(現鎌倉市)に移転が決まった。
最初は無声映画(サイレント映画)活弁師とは
映画活弁師は、映画がまだ無音の時代に、映画館で上映される映画に口頭で解説や説明を加え、音楽を演奏して観客を楽しませる役割を担っていた人々です。活弁師は、映画館で上映される映画のストーリーや登場人物、セリフ、音響効果を口頭で解説したり、時には効果音を自分で作りながら映画を上映することもありました。また、ピアノやオルガンなどの楽器を演奏して映画に合わせた音楽を提供することもありました。
映画がサイレントからトーキーに移行していくと、活弁師の役割は徐々に減少していきましたが、映画が無音時代に観客に楽しませるために欠かせない存在であったと言えます。
活動弁士の誕生
日本で映画が初めて公開されたのは、1896年(明治29年)11月25日の神戸神港倶楽部においてであった。輸入品のキネトスコープは日本人にとっては全く未知の装置であり、またフィルムの尺も短いものであったため、映画を興行として成り立たせるためには、機械の説明をして、場を保たせる説明者が必要だった。この要求に応じる形で口上を述べ、弁舌を振るったのが活動弁士の元祖、上田布袋軒なる人物である。
初期の映画はフィルムに音をつける技術がなかったため、欧米では映画の中に黒バックに挿入されるセリフや背景解説文字のショットと生伴奏の音楽によって上映されていた。日本では言語や文化背景の相違も影響し、上映する際には口頭で説明することが求められた。
日本は話芸の文化が多彩であり、特に人形浄瑠璃における太夫と三味線、歌舞伎における出語り、のぞきからくり、写し絵、錦影絵の解説者といったナレーション文化がすでに定着していたために、説明を担う話芸者が舞台に登場することは自然な流れであったと考えられる。そのため、日本においては、映画作品の内容にあわせて台本を書き、上映中に進行にあわせてそれを口演する特殊な職業と文化が出現した。
活動弁士は、活動写真すなわち無声映画を上映中に、傍らでその内容を解説する専任の解説者。活動写真を弁ずるところから活動写真弁士(かつどうしゃしんべんし)と呼ばれ、略して活弁(かつべん)あるいは単に弁士とも呼ばれるが、無声映画期の活動弁士達は「活弁」と呼ばれることを酷く嫌った。関東圏では映画説明者、関西圏では映画解説者とも名乗っていた。
活動弁士は今日で言うところの「ナレーター」の前身に挙げられる。
特に1920年代から1930年代にかけては、日本映画の黄金時代と呼ばれる時期があり、多くの名作が生まれました。その後、1920年代には、サイレント映画の時代を迎え、特に時代劇やアクション映画が人気を博しました。
1930年代には、日本でもトーキー映画が普及し、音声が付いた映画が製作されるようになりました。
「トーキー」映画が最初に上映されたのは1900年のパリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラ(サウンドカメラは、映画フィルムに光学サウンドトラックを焼き付けて音ネガ(サウンドネガ)を作成するための装置。光学録音機とも呼ばれる。)の発明によって同期が簡単になり、1923年4月にニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された。
トーキー映画の商業化への第一歩はアメリカ合衆国で1920年代後半に始まった。トーキーという名称はこのころに生まれた。当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた。
長編映画としての世界初のトーキーは、1927年10月公開のアメリカ映画『ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)であり、ヴァイタフォン方式だった。
(1926年にAT&Tの1部門だったウェスタン・エレクトリック社が、映画会社ワーナー・ブラザースと共同で音声技術の開発を行う「ヴァイタフォン」社を設立、ここで発明されたディスク録音式(サウンド・オン・ディスク)の録音再生技術が「ヴァイタフォン」として商標登録され、映画の撮影現場に投入されました。
ヴァイタフォンはフィルムカメラの撮影に連動させた装置でワックス製のディスクへ音声を収録し、このディスクをもとに堅牢なビニール盤レコードを作成、これを映画館で上映にあわせて再生する仕組みだった。
これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となりました。
翌1928年に、採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の『蒸気船ウィリー』が公開される。『蒸気船ウィリー』は短編ながら、初のクリックトラックを採用した映画である。しかし、世界初のトーキーアニメーション映画に関しては、1926年に、フライシャー・スタジオの『なつかしいケンタッキーの我が家(英語版)』がすでに公開されています。
1930年代に入るとトーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買ったのです(アメリカ合衆国の映画参照)。
ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった。日本映画でもサウンド版トーキーを経て、1931年(昭和6年)8月に封切りされた『マダムと女房』(松竹キネマ製作、五所平之助監督、北村小松脚本、田中絹代主演)がスタジオで製作された初の全編トーキー作品となった。
しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかったようです。
インドの映画はトーキーの到来によって急速に成長し、1960年代以降はアメリカを抜き、世界一の映画製作数を誇るようになった。
戦後の日本映画
戦争中は、政府の統制下で映画産業が運営され、戦争を美化するプロパガンダ映画が多数製作されました。
戦後になってからも、日本映画は復興期を経て発展し、1950年代から60年代には、黒澤明、成瀬巳喜男、小津安二郎などの映画監督が活躍し、世界的な名声を獲得しました。
黒澤明は第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされている。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。1943年に『姿三四郎』で監督デビュー『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、ハリウッドに進出するも失敗し、その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなったが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。
Akira Kurosawa - Composing Movement https://youtu.be/doaQC-S8de8
Why this movie is better than your favorite movie https://youtu.be/yERksTPz84Y
小津の映画はローポジションのカメラアングル、独特なテンポの会話といった唯一無二の演出方法で日本映画史に名を残す監督、小津安二郎による1962年の映画『秋刀魚の味』。同居する娘・路子(岩下志麻)の結婚を案じるサラリーマンの平山周平(笠智衆)の心境の変化を微細なタッチで描いたこちらの作品。その中から、同窓会にて周平の恩師であるヒョータンこと佐久間(東野英治郎)が鱧を食べるシーンをご紹介します。かつては厳しかった恩師が鱧を食べたことすらないと知り、周平の心境に変化を及ぼす重要なシーンです。ヒョータンの昭和の”ザ・酔っ払い”といった憎めないキャラクターがたまりません。
秋刀魚の味 https://www.netflix.com/title/70104401
不朽の名作『東京物語』
成瀬巳喜男は女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによる多数の作品を手がける。また、小津映画によって神話化された原を『めし』『驟雨』で起用し、市井に生きる飾らない妻の姿を生き生きと演じさせた。
林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして川端康成原作の『舞姫』『山の音』、室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききった。
成瀬の遺作は1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』であった。
アメリカの映画産業の最初
アメリカの映画産業の始まりは、1890年代後半に遡ります。当時は、映像を観客に見せるために、キネトスコープやヴィタスコープなどの映写機が開発されていました。そして、1895年には、フランスのルミエール兄弟がシネマトグラフという映写機を開発し、映画を上映することに成功しました。この技術がアメリカにも伝わり、1896年にはニューヨークで初めての映画上映が行われました。
当初は、映画はニッケルオデオンと呼ばれる小さな劇場で上映され、非常に短い映像が繰り返し流される形式が主流でした。しかし、観客からの需要が高まり、1900年代には長編映画が製作されるようになりました。また、映画産業はすぐに商業的な利益を生み出すようになり、映画会社や配給会社が設立されました。
1910年代に入ると、映画産業は大規模化し、ハリウッドが映画製作の中心地となりました。ここで多数の映画会社が設立され、スター俳優や映画監督が誕生しました。また、映画は世界中に輸出され、アメリカ映画は世界中で人気を博すようになりました。
その後、1930年代にはトーキー映画が普及し、音声が映画に取り入れられるようになりました。1950年代から60年代には、テレビの普及や競合産業の台頭などの問題に直面しましたが、新しいジャンルの映画が生まれ、アメリカ映画は依然として世界的な影響力を持っています。
フランスの映画産業の最初
フランスは、世界で最も古い映画産業の一つとして知られています。フランスにおける映画の歴史は、1895年にリュミエール兄弟がシネマトグラフという映写機を発明し、世界初の公開映画上映を行ったことに始まります。この出来事は、フランスの映画産業に大きな影響を与え、早い段階から多くの映画製作が行われるようになりました。
1910年代から1920年代にかけて、フランスはヨーロッパの映画製作の中心地となりました。この時期、フランスでは多くの有名な映画監督が活躍し、彼らの作品は国内だけでなく、国外でも高い評価を得ました。特に、1920年代にはフランス印象派と呼ばれる映画運動が起こり、美術や文学からの影響を受けた芸術的な映画が制作されました。
1930年代に入ると、フランスでもトーキー映画が導入されました。また、第二次世界大戦後には、フランス・ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画運動が起こり、新しい映画の表現手法が取り入れられました。この運動は、フランスだけでなく、世界中の映画産業に大きな影響を与えました。
現在、フランスは依然として映画産業が盛んな国の一つであり、多くの映画祭が開催され、映画作品も多数制作されています。また、フランス映画は世界中で高い評価を得ており、多くのフランス映画が国際的な賞を受賞しています。
ジャン=リュック・ゴダール監督長編第一作で、ヌーヴェル・ヴァーグの代名詞的作品。「勝手にしあがれ1960」
フランスのヌーヴェルヴァーグは、ジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらが支えた。フランスとは異なり、日本のムーヴメントは当初、撮影所の内部で始まった。若く、それまではほとんど知られていない映画作家たちによるものだった。
「日本ヌーヴェルヴァーグ」の語は、ヌーヴェルヴァーグの日本版として撮影所の内部で最初につくりだされた。「日本ヌーヴェルヴァーグ」の映画作家たちは、フランスの映画監督たちの作風と情熱に影響を受け、インディペンデントな映画運動を急速に発展させた。
フランスの監督たちに近いバックグラウンドから登場した日本の映画監督が大島渚であった。
大島の記念碑的第二作である『青春残酷物語 』は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』により刺激されたと発表されました。
他に「日本ヌーヴェルヴァーグ」の映画監督は、羽仁進、勅使河原宏、増村保造、篠田正浩、今村昌平、新藤兼人、鈴木清順、志村敏夫、中平康、蔵原惟繕です。
フランス映画には、日本の文化や美学をテーマとした作品が多くあります。これは、「ジャポニスム」と呼ばれるフランス文化における日本趣味が影響していると考えられ19世紀末から20世紀初頭にかけて、フランスでは日本趣味が流行し、日本の美術や文化に対する関心が高まっていました。この時期には、日本風のデザインやアートが流行し、日本の浮世絵や陶器、刀剣などの美術品がフランスに輸入され、多くの芸術家たちに影響を与えました。
ロシア映画の歴史
ロシアの映画産業は、ソビエト連邦時代に急速に発展し、アート映画や社会派映画などの傑作が多く生まれました。革命前の1917年には、ロシア映画史上初の長編映画である『ストルイエム』が製作され、これがロシア・アヴァンギャルド映画の始まりとされています。
その後、1920年代に入ると、レニングラードの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが製作した『戦艦ポチョムキン』や『十月革命』、また、モスクワの映画監督ドズ・トイミンが製作した『生きている死体』などの作品が生まれ、世界中から注目されるようになりました。
第二次世界大戦後は、政治的な理由により映画製作に制限がかけられるようになりましたが、1960年代には新しい才能ある映画監督たちが登場し、新たな映画運動が生まれました。アンドレイ・タルコフスキーやアンドレイ・ジヴァゴトフスキー、セルゲイ・ボンダルチュクなどの監督たちは、詩的な映像表現や哲学的なテーマを探求した作品を次々に発表し、ロシア映画の歴史を彩っています。
映画の編集理論・モンタージュ理論とはなにか
映画モンタージュ理論は、ソビエト連邦の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン(Sergei Eisenstein)によって提唱されました。
エイゼンシュテインは、革命的な社会変革を象徴する映画を制作するために、映画モンタージュ理論を開発しました。彼は、映画モンタージュ理論を通じて、映画を芸術的な表現手段として活用することを目指しました。
彼は、ロシア・ソビエト連邦の映画監督、脚本家、映画理論家であり、映画史上最も影響力のある人物の一人とされています。
エイゼンシュテインは、革命前の1917年に生まれ、映画監督になる前は演劇やオペラの演出家として活躍していました。彼は映画において、編集技術を重視し、蒸気機関車のシーンや大量の群衆シーンなど、劇的な効果を生むための映像表現に革命的な手法を取り入れました。彼の代表作映画作品である「ストライキ」や『戦艦ポチョムキン』は、ソビエト映画史上最も有名な作品の一つであり、編集技術の傑作としても知られています。
エイゼンシュテインはまた、映画理論家としても優れており、映画における編集の重要性を強調し、モンタージュ理論を提唱しました。彼の著作『映画の形式について』は、映画理論の古典的な著作の一つとされています。彼の影響は、映画史において大きなものであり、現代の映画製作者にも多大な影響を与え続けています。
セルゲイ・エイゼンシュテインが提唱したモンタージュ理論は、映画制作において編集技術を駆使することで、映像の力を最大限に引き出す手法であり、映画史において大きな影響を与えました。
エイゼンシュテインは、映画における編集技術の重要性を強調し、映像を編集することで新たな意味や感情を生み出すことができると主張しました。彼は、編集によって映像の関連性や対比を強調し、ドラマチックな効果を生み出すことができると考えました。
映画モンタージュ理論では、映像や音楽などの異なる要素を組み合わせ、新しい意味を生み出すことで、観客の感情や思考を引き起こすことができます。
例えば、ショットの長さや順序を変えることで、時間や空間の感覚を変化させることができます。また、音楽や効果音を加えることで、映像の雰囲気を強調することもできます。これらの要素を巧みに組み合わせることで、より劇的な効果を生み出すことができます。
彼の影響は、その後の映画制作に大きな影響を与え、モンタージュ手法は世界中の映画製作者に広く採用され、現代の映画制作においても重要な手法の一つとなっています。また、彼の理論は、美術、音楽、演劇などの芸術分野にも影響を与え、現代の芸術全般に影響を与えています。
今のようなカメラワークはいつ生まれたか
映画のカメラワークが重要視されるようになったのは、1920年代以降のことです。
それまでの映画は、カメラを固定して演技を撮影するスタイルが主流でしたが、ドイツの映画監督フリッツ・ラングやF・W・ムルナウらの作品に代表される表現主義の影響を受け、カメラの位置やアングルを変えた映像表現が試みられるようになりました。
また、アメリカの映画監督ダリル・F・ザナックや撮影監督グレッグ・トーランドらが開発したスタジオ撮影技術や、フランスの映画監督ルイ・デリュックが開発した深度合成技術なども映画のカメラワークの進化に貢献しました。これらの技術を駆使して、よりリアルな映像表現が可能になり、映画の世界観をより深く、豊かに表現することができるようになったのです。
カメラワークとモンタージュ理論の違いはなにか
カメラワークとモンタージュ理論は、映画制作において異なる要素であり、それぞれの役割や目的が異なります。
カメラワークは、映像を撮影するためのカメラの使用方法や、カメラの位置、角度、移動などの技術的な要素を指します。カメラワークは、映像の視覚的な表現を通じて、物語やキャラクターの感情を表現するために重要な役割を果たします。例えば、カメラを低い位置から撮影することで、被写体を大きく見せ、力強さや威圧感を表現することができます。
つまり、カメラワークは、映像制作において使用されるカメラの技術的な操作や構図の選択に関することを指します。例えば、カメラを動かすことによって、被写体を追ったり、視点を変えたりすることができます。また、カメラの焦点やシャッタースピード、露出などの設定を変更することによって、映像の表現に影響を与えることができます。
一方、モンタージュ理論は、映像の編集に関する理論です。モンタージュは、異なる映像を編集して新しい意味を作り出すことを指します。例えば、シーン間のカットを使用して時間の経過を表現することや、異なるシーンを重ねて対比を表現することができます。モンタージュ理論は、映像の編集技術によって、視聴者の感情や意見を操作することができるという考え方を基盤としています。
カメラワークとモンタージュ理論は、映像制作において共通して使用されるテクニックであり、相互に関連しています。カメラワークによって撮影された映像を、モンタージュによって編集することで、より効果的な映像表現を実現することができます。
映画フィルムカメラの歴史
映画のフィルムカメラは、映画の創成期から現代に至るまで、映画制作の中核として使用されてきました。以下に、映画のフィルムカメラの歴史を簡単にまとめます。
1890年代:映画の発明者であるトーマス・エジソンが、映画用のキネトスコープを発明し、映画撮影に最初のフィルムカメラが使用されました。
1900年代:フランスの映画製作者ジョルジュ・メリエスが、ムービングカメラを発明し、映画製作に大きな進歩をもたらしました。
1920年代:映画産業が発展すると、映画製作に特化した高性能なカメラが登場しました。この時期には、サイレント映画の撮影に使用された標準的な35mmフィルムカメラが開発されました。
1930年代:映画産業が成長するにつれて、より高品質のカメラが求められるようになりました。この時期には、テクニカラーの発明により、色の再現性が向上した。
1950年代:この時期には、大画面の映画館での映画鑑賞が主流となり、カメラの画質と精度が改良されました。この時期には、フィルムカメラの形式も、パナビジョンやシネマスコープなど、画面比率が変更されたものが登場しました。
パナビジョンが高画質で他社と異なる理由は、以下のような特徴があるためです。
◎大画面映像を高品質で表示するための専用技術
◎パナビジョンは、大画面映像を高品質で表示するために専用の技術を開発しています。具体的には、高解像度のデジタルカメラで撮影された映像を、高精細度で大画面表示するための特殊なプロジェクターやスクリーンを使用しています。
◎明るさ、コントラスト比、色再現性の向上
◎パナビジョンは、従来の35mmフィルムよりも高精細度であるため、明るさ、コントラスト比、色再現性が向上されています。これにより、よりリアルで没入感のある映像体験を提供することができます。
◎サウンドシステムの充実
◎映画館によっては、パナビジョンとともに、高品質なサウンドシステムを導入している場合があります。これにより、映像と音の両方が高品質であるため、より臨場感のある映像体験を提供することができます。
以上のような理由から、パナビジョンは高画質で他社と異なるとされています。ただし、専用の技術や機材を必要とするため、一般的な映画館よりも投資が必要となることがあります。
映画の24コマはいつから
映画の24コマという表現は、1秒間に24枚のフィルムを順次投影することで、映画がスムーズに流れるように見えます。
この方式は、1895年にリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフの仕組みに基づいています。当時は、映画を撮影してからフィルムを手動で巻き戻してから再生する必要があったため、24コマ/秒の方式が採用されたとされています。
現在でも、映画の標準的なフレームレートとして24コマ/秒が使用されていますが、デジタル映像の普及に伴い、映画館やテレビ放送などで、より高いフレームレートを使用する場合もあります。
映画の初期のフィルムは、セルロイド(硝子繊維素)で作られた薄いフィルムでした。このフィルムは、映画撮影に適した軽量で耐久性があり、また透明で光を透すことができる特性を持っていました。
35mmフィルムは、映画用のフィルムの一種で、撮影用途や映写用途に使われます。一般的には、フィルム幅が35mmで、縦に並んだ連続的な静止画像を記録しています。35mmフィルムは、映画の黎明期から使用されており、現在でも一部の映画制作者や映画愛好家たちによって好まれています。
後の写真カメラメーカーのライカ社ではこの35mmフィルム、映画の二コマ分を一枚として撮るように写真機に入れたのがライカ版カメラの最初となっています。
映画フィルムはいつから製造されていたのか
映画フィルムの会社は、映画が商業的な娯楽として普及する前から存在しています。
1895年にリュミエール兄弟が映画を発明して以来、映画は急速に普及し、映画館が次々に開業されるようになりました。この時期には、映画フィルムの需要が高まり、フィルムメーカーが登場しました。
アメリカでは、1895年にエスタブリッシュメント・オブ・インダストリアル・マンハッタン・カンパニー(EIMC)が設立され、映画フィルムの製造・販売を行いました。その後、コダック、アグファ、パテなどの大手メーカーが誕生し、映画フィルム業界は急速に発展していきました。
また、映画フィルムの製造技術も進歩し、初期のセルロイドフィルムから安定したナイトレートフィルム、サファイアフィルム、およびトリアセートフィルムへと進化していきました。映画フィルムの製造業者は、フィルムの高品質と安定した供給を確保するため、映画製作者との密接な協力関係を築きました。
しかし初期の映画フィルムは、非常に燃えやすい性質を持っていたため、映画製作には火気に注意しなければなりませんでした。実際に、映画館での映写中に火災が発生する事故も起きており、安全性の向上が求められるようになりました。そのため、フィルムの素材や製造方法が改良され、現在のフィルムの素材であるポリエステル系素材に移行していきました。
映画の技術が進歩するにつれて、フィルムの解像度も向上し、より精密な映像が記録されるようになっていきました。
現代においては、映画のデジタル化が進んでいますが、映画フィルムメーカーは、現在でもフィルムの生産を続けています。
最初のカラー映画は
カラー映画の歴史は、映画が発明された当初から存在していましたが、技術的な制限やコストの問題から、モノクロ映画が主流でした。しかし、技術の進歩や需要の高まりによって、カラー映画が徐々に普及していきました。
最初のカラー映画は、1895年にルイ・リュミエールが発明した、3色分離方式に基づく自然色映写機を使った「リュミエール色彩写真」という手法で制作された「サンフランシスコのパレード」です。しかし、この方式は技術的に複雑で、映写機やフィルムの改良が必要であり、普及には至りませんでした。
その後、数多くのカラー映画の技術が開発され、特に1920年代には、テクニカラー社による2色分離方式や、ゼネラル・エレクトリック社によるフィルムに着色する手法などが登場しました。これらの技術は、映画産業においてカラー映画の製作を可能にし、製作費の高い映画でもカラーで制作されるようになりました。
1940年代には、3色分離方式に基づくテクニカラーが普及し、映画制作においては標準的な技術となりました。その後、1960年代以降には、フジカラー、イーストマン・カラー、コダクロームなどのフィルムが登場し、より高品質なカラー映画の制作が可能になりました。
現在では、デジタル技術の発展により、フィルムを使わずにデジタルカメラで撮影することが主流となっています。カラーグレーディングなどのデジタル技術により、映像の色味やトーンを細かく調整することができ、カラー映画の表現力はますます高まっています。
最初のトーキー映画は
トーキー映画の最初は、1927年にアメリカの映画会社ワーナー・ブラザースが制作した「ジャズ・シンガー」というミュージカル映画です。この映画は、アル・ジョルソンが歌いながら踊る様子をトーキー技術で収録し、劇場で上映されました。この映画は大ヒットし、トーキー映画の時代を開いたとされています。それまでのサイレント映画に比べ、トーキー映画はよりリアリティーがあり、より多くの観客を引き付けることに成功し映像と音声を同期させた初めてのトーキー映画として公開され、映画史に新しい時代をもたらしました。
映画のサイズ
映画フィルムの画面サイズは、過去には複数の規格がありましたが、現在は主に以下の2つが一般的に使われています。
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スタンダード・サイズ
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スタンダード・サイズは、1コマの大きさが約22mm x 16mmで、アカデミー・レシオとも呼ばれます。この規格は、1930年代に導入されたもので、4:3の画面比率を持ちます。これは、テレビなどのディスプレイの画面比率と同じです。
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ワイド・スクリーン・サイズ
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ワイド・スクリーン・サイズは、1コマの大きさが約22mm x 11mmで、シネマスコープとも呼ばれます。この規格は、1950年代に導入されたもので、2.35:1や2.39:1といった、より広い画面比率を持ちます。これは、映画館のスクリーンの画面比率に合わせて設計されたものです。
映画フィルムは、これらのサイズにフィルムが切り分けられているため、映画館での上映においては、フィルムを適切なサイズにセットする必要があります。
高画質化と大型スクリーンへの技術革新
ビスタサイズとは
ビスタサイズとは、映画の画面サイズのひとつで、映画製作者のジョージ・スティーブンスによって提唱された規格です。ビスタビジョンとも呼ばれます。
ビスタサイズのフィルムのサイズは、幅約35mm、高さ約18.6mmです。このサイズは、従来のスタンダード・サイズ(幅約35mm、高さ約22mm)よりも幅が広く、高さはやや短くなっています。
ビスタサイズは、従来のスタンダード・サイズに比べて画面が広く、より大規模な映像表現が可能となりました。また、画面の高さが短くなることで、より広い画面比率を実現することができました。
ただし、ビスタサイズは、フィルムのサイズが大きくなったことで、従来のスタンダード・サイズに比べてコストが高くなるという問題があり現在では、ビスタサイズは主流ではなくなり、ワイド・スクリーン・サイズやその他の規格がより一般的に使用されています。
このため、現在では、デジタル技術の進化により、フィルムを使用せずに高品質な映像を実現することが可能となっており、ビスタサイズのフィルムはあまり使用されなくなっています。
また、映画の制作においては、スタンダード・サイズとワイド・スクリーン・サイズのどちらを採用するかは、映画監督やプロデューサーの判断によります。
さらなる大型化で70mmフィルム映画の最初と歴史
70mm映画は、映画の画面サイズのひとつで、幅約70mmのフィルムを使用して撮影された映画のことを指します。映像の解像度が高く、色彩の表現力に優れ、音声の再生品質も高いことが特徴です。
70mm映画の歴史は、1950年代に始まります。当時、映画館の集客力を高めるために、従来のスタンダード・サイズに比べて大きな画面を持つ映画が求められるようになりました。そのため、幅約70mmのフィルムを使用する70mm映画が登場しました。
70mm映画の最初の作品は、1955年に公開されたアメリカ映画の「オクラホマ!」(Oklahoma!)です。このミュージカル映画は、ロジャース&ハマースタインが手がけた同名の舞台作品を映像化したもので、トッド・AO方式による70mmフィルムで撮影されました。映画史において、70mmフィルムによる撮影は、広い画角や高画質な映像表現が可能となるため、画質の向上を目的に多くの映画で採用されました。
1960年代には、70mm映画の人気はさらに高まり、映画館でも大画面のプロジェクターが導入されるようになりました。しかし、70mmフィルムは従来のスタンダード・サイズに比べて高価で、取り扱いにも注意が必要であるため、現在ではあまり使用されなくなっています。
トッド・AO(Todd-AO)方式とは、1950年代にアメリカの映画製作会社であるトッド・アオ・コーポレーションが開発した、高品質な映画撮影・上映技術です。
トッド・AO方式は、従来の35mmフィルムよりも大きな70mmフィルムを使用することで、より高精細な映像を実現します。また、独自の撮影技術や音声技術を組み合わせることで、より臨場感のある映画体験を提供することができます。
トッド・AO方式による映画は、巨大なスクリーンで上映されることが一般的で、その迫力ある映像は、観客に没入感を与えます。特に、自然風景や都市風景など、広い範囲を撮影する必要がある映像には適しています。
トッド・AO方式は、その後も改良が進められ、今日ではIMAXなどの大型スクリーン映像技術にも継承されています。
さらなる大型映画IMAXとは
IMAXは、1970年代にカナダで開発された大型スクリーン映像技術で、広い画面と高画質な映像・音響を特徴としています。IMAXは、Initial Maximum Operating Experienceの略で、初めは万能プロジェクションシステム(Multi-screen Projection System)と呼ばれていました。
IMAXのスクリーンは、通常の映画館のスクリーンよりも大きく、高さが20メートル以上にもなることがあります。また、映像は70mmフィルムを使用し、高画質で臨場感あふれる映像を提供します。音響面でも、複数のスピーカーを使って、360度に広がる迫力ある音響を実現しています。
IMAXは、アメリカをはじめとする世界中で映画館として使用されているほか、博物館やテーマパークなどでも活用されています。また、最近では、IMAXに対応したデジタルカメラやプロジェクターが開発され、デジタル上映にも対応しています。
IMAXは、映画製作者にとっては、より迫力ある映像を提供できる一方で、映像の製作には専用のカメラやスタジオ、技術者が必要となり、製作コストも高くなります。しかし、その迫力ある映像と音響は、観客にとって圧倒的な映画体験をもたらし、多くの人々に愛されています。
デジタル化されたIMAX
デジタルIMAXは、IMAX Corporationが開発した高解像度の映画上映システムです。従来のIMAX映画のフィルム方式に代わり、デジタル映像を使用しています。
デジタルIMAXの最大の特徴は、非常に高い解像度であることです。IMAXデジタルプロジェクターは、一般的なデジタルプロジェクターよりも大きな画面に対応し、120フレーム/秒の高速な映像表示が可能です。これにより、迫力のある映像を鮮明かつ滑らかに映し出すことができます。
また、IMAXの音響システムも高い評価を受けています。映画館内に配置された多数のスピーカーにより、臨場感のあるサラウンドサウンドを実現しています。
デジタルIMAXは、大画面で迫力のある映像と音響を楽しめるため、映画館での上映に最適です。IMAX Corporationは、デジタルIMAXを世界中の映画館に導入し、より多くの人々に最高の映画体験を提供することを目指しています。
映画の配給システム
映画の配給システムは、映画の製作元である映画制作会社が、映画を映画館やビデオ、オンライン配信サービスなどに提供する仕組みです。
映画の配給は、まず映画制作会社が映画を完成させた後、映画を配給会社に提供します。
配給会社は、映画館やビデオ、オンライン配信サービスなどの媒体に映画を提供し、映画の宣伝やマーケティング、上映スケジュールの調整などを行います。
配給会社は、映画館に映画を提供する場合、地域や上映期間、映画の人気度などに応じて、上映スケジュールや映画館との契約内容を決定します。また、映画館側も配給会社から提供された映画の上映スケジュールや契約内容を検討し、上映する映画を選択します。
映画の配給には、多くの場合、映画制作会社、配給会社、映画館の間で配給料が支払われます。配給料は、映画制作費用の回収や配給会社の利益を確保するために設定されます。
映画の配給システムは、映画産業の重要な要素であり、映画制作会社と映画館などの配給先の間での信頼関係や、契約内容の取り決めなどが重要な役割を果たしています。
映画館のデジタル化
映画館のデジタル化は、2000年代後半から始まりました。それ以前は、映画館で上映する映画は、35ミリフィルムと呼ばれるフィルムを使っていました。しかし、デジタル技術の進歩により、映画製作者はデジタル形式で映画を制作するようになりました。これにより、映画館もデジタルプロジェクターに切り替えることができました。デジタルプロジェクターは、従来の35ミリフィルムよりもコストが安く、メンテナンスが容易であることから、映画館のオペレーションを改善しました。また、デジタルプロジェクターは、映画製作者が作り出す高品質の映像と音響を正確に再現することができるため、映画体験も向上しました。
映画館の変化
シネコン(シネマコンプレックス)は、複数のスクリーンを備えた大型の映画館のことで、同じ施設内で複数の映画を上映することができます。シネコンは、アメリカ合衆国で1980年代に登場し、その後、日本や世界中で普及しました。
日本においては、1990年代に入ってから急速に普及し始め、特に1997年に公開された『タイタニック』の大ヒットをきっかけに、シネコンの需要が急増しました。その後、多くの大手映画館チェーンがシネコンを建設し、映画館業界の中心的な存在となりました。現在では、日本の映画館の多くがシネコン形式で運営されています。
シネコンのメリットは、以下のようなものがあります。
◎多彩なラインアップの映画が楽しめる:複数のスクリーンを備えるため、同じ施設内で複数の映画を同時上映することができます。そのため、幅広いジャンルの映画を楽しむことができます。
◎快適な観賞環境:シネコンは多くの場合、座席がゆったりとしており、スクリーンが大きく、音響効果が高いため、映画館で快適な映画体験を楽しむことができます。
◎多様なサービスやグッズの提供:シネコンは、映画館に加え、フードコートやショップが併設されていることが多く、映画鑑賞の前後に食事や買い物を楽しむことができます。また、映画に関するグッズや書籍などの販売も行われており、映画好きにとっては魅力的な施設です。
◎映画体験の幅広い選択肢:シネコンは、3Dや4D映像、IMAXなど、様々な映画体験を提供することができます。そのため、よりリアルな映画体験を楽しむことができる上、家庭での映画鑑賞とは異なる魅力を味わうことができます。
◎駐車場やアクセスの利便性:多くのシネコンは、駐車場や公共交通機関のアクセスが良い場所に位置しているため、車での来館や交通手段の選択肢が多いため、利便性が高いというメリットがあります。
小型映画フィルムカメラの歴史
16mmフィルムカメラの歴史は、1923年にアメリカ合衆国の映画製作者であるチャールズ・プラスキによって開発された、映画用の小型フィルムカメラに始まります。このカメラは、当時主流であった35mmフィルムカメラよりも小型で軽量でありながら、同等の映像品質を実現することができました。
当初は、ニュース映画やドキュメンタリー映画、そしてエンターテインメント映画の撮影に使われました。しかし、16mmフィルムは比較的安価であり、一般消費者が手軽に使用できるようになったことから、家庭用映画撮影機器としても普及しました。
1940年代以降、16mmフィルムカメラは、戦争映画や教育映画、企業の宣伝映画など、様々な用途に使用されました。また、テレビの普及により、ニュース映像やドキュメンタリー映像の撮影にも使用されました。
1960年代に入ると、16mmフィルムカメラは、映画制作の中で、低予算映画やドキュメンタリー映画、そしてアマチュア映画制作者によって広く使用されるようになりました。さらに、音声録音機能が追加された16mmフィルムカメラも登場し、音声映画の制作にも使用されるようになりました。
有名な映画カメラメーカーと製品
アリフレックス社は、かつてフランスに本社を置いていた映画用カメラメーカーでした。創業者のアンドレ・コワヤールによって設立され、1937年に最初のカメラを発売しました。
アリフレックス社の映画カメラは、高品質な映像を撮影するために広く使用されていました。特に、『セブン・サムライ』や『ローマの休日』といった名作映画で使用されたことで知られています。
アリフレックス社は、映画用カメラのほかにも、テレビ用カメラやビデオカメラなどの製造も行っていました。しかし、デジタル映像技術の進歩により、アナログ映像の需要が減少し、アリフレックス社は2010年に閉鎖されました。
アリフレックス社の16mmカメラは、高品質な映像を撮影することができ、特に世界中のTV映画制作者によって多く使われました。16mmカメラの中でも、最も有名なのは「アリフレックス16」と呼ばれるカメラです。このカメラは、1950年代に登場し、当時としては革新的な設計を採用していました。特に、リフレックス機構を採用し、視野ファインダーを通して映像を見ながら撮影できるという特徴がありました。これにより、より正確でプロフェッショナルな映像を撮影することができました。
現在でも、アリフレックス社の16mmカメラは、映画制作者や映画愛好家の間で人気があります。古いモデルでも、高品質の映像を撮影できるため、カルト的な人気を誇っています。
ボレックス社は、スイスの映画用カメラメーカーです。1927年に設立され、16mmおよびスーパー16mm映画用のカメラを製造していました。
ボレックス社のカメラは、手動で操作することができ、非常に耐久性が高く、高品質の映像を撮影することができます。特に、1960年代に発売されたモデルは、プロフェッショナルな映画制作者に広く使用されました。
また、ボレックス社のカメラは、スイス製の精密な機構を採用しており、正確なフレーミングやフォーカスが可能であることで知られています。さらに、レンズの交換が簡単にできることから、多様な撮影シーンに対応できる柔軟性もあります。
ボレックス社のカメラは、映画制作者だけでなく、アマチュアの映画愛好家にも人気がありました。低予算で高品質の映像を撮影することができ、ホビーストや学生にも手軽に使えることから、映画制作の教育にも広く用いられました。現在でも、多くの映画制作者や映画愛好家に愛され続けています。
映画の音声トラック
オプチカルサウンド(optical sound)とは、映画音声の再生方式の一つで、光学的な手法を用いて音声信号を映画フィルムに記録し、再生する方式です。
オプチカルサウンドは、1920年代に開発され、1930年代に普及しました。この方式では、映画フィルムの両側に、音声信号を光学的に変換するための光学式音声トラックが付加されます。音声信号は、光の変動を記録した波形としてフィルムに記録されます。映像トラックとは別に、通常は映像の下に配置されます。
再生する際には、光学的な手法を用いて、光を読み取って音声信号を復元します。映画館では、音声信号を光学的に読み取るための光学式サウンドヘッドと呼ばれる機器を使用します。
オプチカルサウンドは、その後も長年にわたって映画音声の再生方式として使われ続け、今でも一部の映画館で使用されています。しかし、デジタルサウンドの台頭により、徐々に使われなくなってきています。
磁気サウンドトラック(magnetic sound track)は、映画音声の記録方式の一つで、磁気テープを用いて音声信号を映画フィルムに記録する方式です。
磁気サウンドトラックは、1940年代に開発され、1950年代から普及しました。この方式では、映画フィルムに磁気テープが接着され、音声信号は磁気テープ上に磁気的に記録されます。映画フィルムと磁気テープの接着は、映画フィルムに機械的なダメージを与えないように特別な技術で行われます。
磁気サウンドトラックの最大の利点は、オプチカルサウンドよりも高音質であることです。また、再生時に光学的な読み取りが必要ないため、より高速に音声信号を読み取ることができます。しかし、磁気テープは劣化しやすいため、保管状態には注意が必要です。
磁気サウンドトラックは、映画のサウンドトラックにおいて、1960年代後期から1970年代にかけて広く使用されました。当時は、映画館に設置された磁気テーププレーヤーによって音声が再生され、高品質な音声を提供することができました。
また、磁気サウンドトラックの利点は、映像と音声を一体化し、映像の迫力をより強めることができた点です。例えば、戦闘シーンやドラマティックな場面において、磁気サウンドトラックを用いることで、映像と音声の連動がよりスムーズになり、観客の感情をより強く揺さぶることができました。
しかし、1980年代以降、デジタル技術の発展により、磁気サウンドトラックは次第に廃れていきました。現在では、ほとんどの映画はデジタルオーディオフォーマットで制作され、映画館にはデジタルサウンドシステムが導入されています。
現在の映画は、デジタルオーディオフォーマットで制作されることが一般的となっています。デジタル技術により、高品質で正確な音声が記録・再生でき、映像と音声をより一体化した作品制作が可能になりました。
映画館においても、デジタルサウンドシステムが導入されています。代表的なものには、ドルビーシネマやデジタルシアターシステムがあります。これらのシステムでは、複数のスピーカーを用いて、立体的なサウンド空間を再現することができます。映画館に行くと、臨場感のあるサウンドとともに映像を楽しむことができます。