- 東京メディアプロデュース合同会社:動画講座と動画制作キャリア40年
放送の歴史から何を学ぶか
動画の時代と言われてますが、今後の動画クリエーターが活躍する今後の世界がビジネス的にどう変化していくのかを考えた場合、映画・放送の歴史から学ぶ事は多数あると思います。
以前の映画産業の衰退期(一般的には1970年代後半から1980年代にかけての時期が衰退期とされている)は、テレビの普及により映画館への客足が減少し映画産業は衰退し、多くの映画館が閉鎖されました。
一方テレビ放送は生放送の街頭テレビから始まり、放送番組や技術革新の変化、デジタル化、マルチチャンネル化など、様々な要素で発展し家庭内での重要不可欠な情報・娯楽のツールとなりました。
これらの変化とニーズの歴史的な変化や背景を理解することで、今後の新たな動画配信時代の在り方について理解を深めることができます。多角的な視点から新たな動画クリエーターが生まれて欲しいと思います。
動画クリエーターのために
テレビマンが若い現在の動画クリエーターに、にいくつかのアドバイスを挙げるとすると。
-
クオリティーを重視すること: 動画制作において、視聴者が最も重視するのはクオリティーです。You Tubeなど配信されてる動画は残念ながら多くはテレビ番組のクオリティーには程遠いです。それを高めるために、撮影のカメラワークを始め照明や音などの基本的な要素にも十分に気を配り、技術を磨くことが大切です。
-
内容にこだわること: 技術レベルだけでなく、コンテンツの企画演出にもこだわることが大切です。独自のアイデアを持ち、そのアイデアをうまく映像化するための技術やノウハウを身につけることが必要です。
-
オリジナリティーを追求すること: 競合が激しい動画クリエーターや配信市場では、オリジナリティーを追求することが大切です。他の人がやっていないことや、自分だけの独自性を出すことが重要です。
-
視聴者目線で考えること: テレビ放送の現場スタッフと比べ動画クリエーターには視聴者を知ろうとする意識が薄いと思います。視聴者目線で動画制作を行うことが大切です。視聴者が何を求めているのかを常に意識し、そのニーズに合わせたコンテンツを制作することが必要です。ただし、視聴率優先で同じような内容の競争になってはいけないと思います。
-
ソーシャルメディアとマスメディアの活用術を学ぶこと: 動画クリエーターにとって、ソーシャルメディアは非常に重要なマーケティングツールですが、放送などのマスメディアとコレボレーションをするか、自分の作品を多くの人に届けるための戦略を練ることが必要です。
では、テレビの70年歴史を振り返りましょう(年代別の番組とエピソード)
TV放送の歴史
■テレビの歴史の概観:新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどが旧来から存在する旧メディア(報道媒体)と言われています。その代表であるテレビ放送は白黒テレビ→カラー→音声多重→ビデオ→衛星多チャンネル→ハイビジョン →3D →4K・8K 液晶・薄型・大画面 →ネット配信TV (You-Tube) 時代と変化してきました。
■テレビの歴史年表
1873 イギリス 明暗を電気の強弱に変えて遠方に伝えるテレビジョンの開発始まる
1891 エジソンがキネトスコープを発明 フランス・リュミエール兄弟がスクリーンに映写するシネマトグラフを作る
=映画の始まり(白黒、音声なし)
1897 ブラウン管発明。
1925 (大正14) 日本でラジオ放送始まる
1925 日本におけるテレビジョンの研究開始 = 高柳健次郎 https://youtu.be/T0-quZogLDg
昭和2年9月 日本のテレビ誕生とされる。テレビの父と呼ばれる高柳氏(1899-1990)が一人で研究を続けて、ついに大正15年
「イ」の字を映し出した。昭和2年9月に特許出願し、公表した
1926 ごろ 世界初の電子式テレビ装置
1928 世界初のテレビジョン放送 アメリカのWGY局が実験放送
1935 ドイツが本放送を開始、1936年ベルリンオリンピック大会をテレビ中継
1940 アメリカでカラーテレビ実験放送開始
1941 太平洋戦争で日本のテレビジョン研究中止、
1953/2/1 NHKテレビ放送開始(=白黒テレビの本放送開始) 1953年2月1日午後2時。 NHK東京放送局による、日本初のテレビ本放送が開始され 最初に放送されたのは開局特番。 第1声は、志村正順アナウンサーの「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」。
当時は一日の放送時間は約4時間程度で、また、テレビカメラがわずか5台しかなく、大部分の番組が生放送の時代だった。
続く8月28日には、民間放送テレビ第1号となる日本テレビ放送網が開局する。開局に先立ち関東各地に街頭テレビを設置。主にスポーツ中継が人気を博す。
また、日本テレビの開局と共にテレビコマーシャルの放送も始まった。その第1号は精工舎(現在のセイコー)の時報(正午、夜7時の2回)であった。
街頭テレビ時代
日本初のテレビ放送は1953年2月1日に開局したNHKで、この頃の白黒テレビの値段は約8万円で、現在の物価になおすと50万円以上に相当する高額商品でした。もちろん一般人がテレビを買うことはできませんでした。
続く同年8月28日には日本テレビ放送網(NTV)が本放送を開始しました。
しかし1953年、日本ではテレビ受像機は900世帯ほどしか普及していなかった。
日本テレビの社長に就任していた正力松太郎は街頭テレビの設置を推し進めた。民間放送である日本テレビはテレビの広告メディアとしての威力を発揮させるため、8月の放送開始に先立って、街頭テレビを新橋駅西口広場、新宿駅、上野駅、日比谷公園、浅草観音、水天宮など首都圏の55か所に220台を設置しました。小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継・プロ野球中継には観衆が殺到した。
その後、テレビ受像機は街頭テレビのほか電器店や公民館、国鉄を中心とした鉄道駅のコンコースなどに置かれていたが、それに刺激されて飲食店や喫茶店などにも設置されるようになった。一般庶民にとって楽しみにしてた相撲などを見るために蕎麦屋や銭湯に通ってました。
しかし、当時の放送局はラジオが主流で、テレビ放送の現場は「非エリート職場」のイメージが強く希望者は少なかった。
ラジオが全盛の時代になのでディレクターやプロデューサーだった人たちは『君はラジオからテレビへ行け』といわれて
『行きたくない』という人が多かった。ラジオがいちばん私はいいと思います』という人多かった」と言われていました。
(テレビのオーラル・ヒストリーから)
1950 CM
1957 テレビ業界への進出をうかがっていたのが映画会社東映、テレビ兼営をねらった日本短波放送(現:日経ラジオ社)およびその親会社である日本経済新聞社、そして旺文社など出版業界・教育関係者の三者が中心となり、また別に申請していた日活映画や新東宝映画といった大手映画会社も合流し、教育番組専門局として株式会社日本教育テレビを設立した。
郵政省の免許交付の条件は教育番組を50パーセント以上、教養番組を30パーセント以上放送するというものであって、営利を目的とした教育専門局は世界でも珍しかった。
しかし、教育番組のセールスや番組販売が伸び悩んで業績がふるわず、事実上経営は失敗に終わった。
その後は例えばアニメーションや外国映画を、それぞれ「子供の情操教育のため」「外国文化の紹介」との名目で「教育番組」や「教養番組」に指定して郵政省に届け出をし、放送局名も「日本教育テレビ」から「NETテレビ」に変更(1960年12月)して事実上の総合放送局化を図った。
1973年11月に、同じ教育専門局だった東京12チャンネル(のちのテレビ東京)の深刻な経営不振などを理由に、NETテレビにも総合局免許が交付され、名実ともに「総合局NET」として再出発することとなった。
「日本教育テレビ」は開局前に、東映映画は朝日新聞社と合弁で朝日テレビニュース社を設立して、NETテレビは開局以来東映映画が制作したニュースだけを放送していた。
しかし1966年に東映の持株の半分を朝日新聞社が譲受して以降、資本面や経営面でも朝日新聞社との結びつきが強化され、事実上朝日新聞社の傘下に入った。そのこともあり、開局当初から東映グループが制作するテレビ番組は、NETテレビが独占的に扱っていたが朝日新聞社の傘下に入って以降は東映グループが民放他局の製作番組にも積極的に関わるようになっている。
1958 映画全盛期 映画観客数(日本)がピーク、年11.27億人 以後はテレビ普及で減っていく
1958 受信契約100万
1959 皇太子御成婚ライブ中継 https://youtu.be/mAPHEC3Of-E
街頭テレビの時代から徐々に白黒テレビは家庭へと普及し三種の神器の一つに数えられていました。特に1958年の東京タワー竣工と皇太子御成婚ライブ中継で急速に浸透しました。
当時は娯楽の少なかった時代。日本の家庭ではテレビ番組が始まる前からテレビに前に集まり家族揃って食い入るように視聴していました。1964年の東京オリンピックをきっかけとして、カラーテレビ放送も始まり、白黒テレビは各家庭に浸透していきました。
番組の揺籃期
「ジェスチャー」「私は貝になりたい」https://youtu.be/3eoum9iEKEk
ジェスチャー1954年~1965年に放送された総合夜間の30分番組。文章で書かれたお題を身ぶり手ぶりだけで表現し、時間内に当てる番組でクイズ番組の草分けでした。柳家金語楼と水の江滝子がそれぞれ男女両軍のキャプテンとなり男女対抗で競うスタイルでした。各分野の著名人が解答者となり、視聴者から寄せられた難問、珍問に挑んだ。
1966年度からは『クイズアワー』、続いて『ファミリーショー』枠内で継続し、1968年3月で放送を終了してます。
『私は貝になりたい』は、ラジオ東京テレビ(KRT→TBS)の「サンヨーテレビ劇場」で1958年10月31日22時 - 23時40分に放送されたドラマ。元陸軍中尉・加藤哲太郎の獄中手記「狂える戦犯死刑囚」の遺書部分をもとに創作された橋本忍脚本によるフィクションで、第二次世界大戦中に上官の命令で捕虜を刺殺した理髪店主が戦後C級戦犯として逮捕され処刑されるまでを描いた作品です。岡本愛彦演出、フランキー堺主演の歴史に残るテレビドラマです。
2時間近い番組は、半分だけVTR収録で、あとの半分は生放送だった。理由は当時局には高価なVTRがまだ一台しかなかったからだそうです。
現在全部を見ることが出来る理由は、他局がVTRで収録していたためだそうです。
60年代テレビドラマ集
60年代バラエティ番組週
番組の創生期
「スチャラカ社員」「七人の刑事」
『スチャラカ社員』は、1961年4月2日から1967年4月30日までTBS系列局で放送されていた朝日放送製作のコメディ番組です。1961年ごろの上方コメディは、人気番組の相次ぐ終了によって低調な状態となっており、それを打破するため、香川とともに企画したのが『スチャラカ社員』であった。
舞台が「海山物産」の大阪支店とされたのは、社長役のミヤコ蝶々が当時すでに東京での仕事が多くなっていて、毎週出演出来ない事を考慮して、社長不在でも番組を展開できる様にする為といわれている。
当初の計画ではミヤコ蝶々は「ダイラケと共演させるにはあまりに大物過ぎる」としてキャスティングされていなかったが、番組の一社提供である小野薬品工業の専務取締役が蝶々の起用を強く希望し、直々に蝶々を口説いて社長役での出演を承諾させたというエピソードが残っています。
『七人の刑事』はTBS地上波で1958年〜69年の長期にわたり放送された。犯人の追及だけでなく社会の歪みや刑事たちの人間性にまで掘り下げた重厚なストーリー。ハミングによる独特のテーマ音楽。よれよれのレインコートにハンチングという刑事たちのスタイルで、これらの要素が相まって、多くの視聴者の支持を得たテレビドラマ史に残る刑事ドラマだ。
番組の成長期
「ニュースコープ」「ザ・ガードマン」https://youtu.be/jF98ZBOJpBY
『ザ・ガードマン』は、1965年4月から1971年12月にかけて延べ6年9か月(全350話)にわたり、毎週金曜21:30 - 22:30(JST) に放送されたTBSのテレビドラマです。
番組に登場する警備会社「東京パトロール」は日本初の警備会社「日本警備保障」(現在のセコム)がモデルであり、制作には同社の協力を得ている。番組制作にあたり、日本警備保障に提示されたタイトルは「東京用心棒」だった。これに対し、当時の社長・飯田亮が「自分たちは『用心棒』ではない」として、逆提示したタイトルが「ザ・ガードマン」だったとされる。自社をモデルにされるにあたり、飯田は番組の脚本について「乱暴な言葉づかいをしない」、「女絡みなし」、「酒は飲ませない」の条件を出したと言われている。
番組絶頂期にはホテルの玄関先でロケが行われ、撮影中はスタッフによって宿泊客の出入りが禁止されたという。このような事態がまかり通るほど当時の人気と影響力は絶大であり、この番組で確立された「犯罪に敢然と立ち向かう少数精鋭の民間特殊部隊」というスタイルは後に放送が開始された『キイハンター』や『プレイガールシリーズ』などにも引き継がれ、昭和40年代のアクションドラマブームの火付け役となった。
1967年9月22日に最高視聴率40.5%を記録し、またJNN全国視聴率調査においても1965年、1966年と2年連続1位に輝いた。
『JNNニュースコープ』(ジェイエヌエヌ - 、通称:ニュースコープ)は、TBS(JNN)系列にて1962年10月1日から1990年4月1日まで 27年半の長期に渡って放送された夕方の報道番組である。日本初の本格的キャスターニュースショーとしても知られている。
番組の発展期
「若者たち」「3時のあなた」
『3時のあなた』は、1968年4月1日から1988年4月1日までの20年間にわたってフジテレビ系列局ほかで月曜日から金曜日の15時台に生放送されたワイドショー・情報番組であす。
初代総合司会は高峰三枝子と木元教子。高峰の司会起用にあたり、当時番組立ち上げから携わっていた、日枝久(元フジテレビ会長)が同僚と共に、土下座をして出演交渉を行った末の起用であった。当初は「半年だけなら…」と高峰からの要求があったが、5年以上続いた。放送開始当初は、主にゲストを招いてのトーク・歌、主な視聴者層である40代以降の女性に向けてのファッション情報の紹介、地方の風習・伝統の紹介などといった具合で、純粋な主婦向け情報番組としての趣が強い「女性のための女性のワイドショー」だった。
『若者たち』は、1966年にフジテレビで放送された連続テレビドラマ。千葉県の海岸沿いの町に住む、両親を亡くした5人兄弟が、友情・恋愛・確執などを繰り返しながらも逞しく歩き続けて行く青春ドラマ。
視聴者の共感を呼び、開始当初は低かった視聴率も回を追うごとに上昇していった。内容は、1965年11月29日付の毎日新聞朝刊「ある家庭」という特集記事で紹介された、実在の家族を素材に企画されたという。また、ドラマの人気上昇につれ後述の同名主題歌も大ヒットした。
1961『夢であいましょう』は、日本放送協会(NHK)のバラエティ番組。1961年4月8日から1966年4月2日まで毎週土曜日22時台に日比谷会館、日比谷第1スタジオから生放送されていた。「上を向いて歩こう」など数々のヒット曲を世に送り出した。
https://youtu.be/Zt-KWZBGgLM
1960 カラー本放送
1961~72 シャボン玉ホリデー
1962 受信契約1000万
『シャボン玉ホリデー』は、1961年6月4日から1972年10月1日、および1976年10月9日から1977年3月26日まで日本テレビで2期にわたって放送されていた音楽バラエティ番組です。
制作は日本テレビと渡辺プロダクション(後年タレント部門をワタナベエンターテインメントに継承)。渡辺プロが目下売り出し中の双子の女性歌手ザ・ピーナッツを主役に据えた音楽バラエティショーとして制作された。
現場の指揮は、渡辺プロダクションの制作部長・松下治夫(後の株式会社ワイズメン代表)が執った。牛乳石鹸の一社提供だったため、番組冒頭には乳牛の鳴声「モー!」と番組テーマ曲をバックに「提供・乳牛マーク・牛乳石鹸」が書かれていた提供クレジットが入れられていた。
「牛乳石鹸提供、シャボン玉ホリデー!」のタイトルコールに次いで、乳牛の鳴き声でオチとなるコントをやり、その後ザ・ピーナッツがテーマソングをシャボン玉の舞う中で歌い、毎回一つのあるテーマに沿ってザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、そして毎回登場するゲストを交え、コント・歌・トークなどを展開。
番組からは数多くのギャグが生まれ、特に植木等の「お呼びでない?こりゃまた失礼致しました!」は番組を代表する伝説的なフレーズとして親しまれた。
第1回からカラー放送で、生放送ではなく、カラーVTRに収録して放送を行った]。収録は出演者のスケジュール上、深夜に撮影されることが多く、時には、明け方までかかることもあったという。
番組の成熟期
「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」「天皇の世紀」
『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』は、1969年10月7日から1970年3月31日、および1970年10月6日から1971年3月30日まで日本テレビ系列局で放送されていた日本テレビ製作のバラエティ番組である。放送作家出身者である大橋巨泉と前田武彦の掛け合いで進行する生放送パートと、事前収録したショートコントのパートで構成。
録画撮影によるナンセンスなショートコントを、アイキャッチで挟んで矢継ぎ早に繋いでいく演出手法を採っていた。番組自体は、当時アメリカNBCで放送されていたコント番組『ラフ・イン(英語: Rowan & Martin's Laugh-In)』をモデルにしている。ハナ肇の「アッと驚く為五郎」や巨泉の「うーしししし」は流行語にもなった。
基本的に1回の収録には丸二日間を費やしていたが、1日の収録では約100本のギャグを収録し、セットチェンジや照明の直し・リハーサルを含めると1本録るのに約7分かかる計算であったため、休憩を考慮に入れずNGが全く無かったとしても最低で11時間半はかかるという長丁場であった。
発展過程でうまれた放送現場の一面
放送局はタレント育成のため各局が劇団を持っていました。NHKの東京放送劇団も日本放送協会(NHK)の元放送用専属劇団であり、TBSにもあり、その一人が明石 一である。 明石一は、日本の男性声優、俳優、ナレーターでラジオ東京放送劇団(後のTBS放送劇団)に所属していた。
1969年8月25日、当時TBS放送劇団の団員の一人でもあった明石が突然、TBS放送局の役員室のある4階のエレベーター前の一角に死装束を着て頭に三角の額あてを巻いた姿で座り込み、線香を焚いてハンガー・ストライキを起こす事件があった。
きっかけは同年4月、TBSがラジオドラマの減少を受けてTBS放送劇団員と結んだ出演契約を同年10月で廃止することを決め、劇団員との交渉を開始したことでした。
そこで、明石はこのストライキを起こしたのです。
初めはその異様さに驚いた人たちもいたが、事情を知るにつれて色々な職場の有志からの同情の声明文が張り出されるようになったり、労働組合としても放っておけなくなったりと、騒ぎが大きくなってしまったが、その後明石は衰弱し、医師の指示で病院に運ばれたため、この事件は終わることになった。
名プロデューサーの誕生
石井 ふく子は(1926年〈大正15年〉9月1日 - )は、日本を代表するテレビプロデューサーです。俳優伊志井寛の長女にあたる。新東宝の女優活動から出発し、ラジオ東京(現・TBS)に入社。
TBSの上司から本格的に制作スタッフとしてドラマに携わるよう指示を受け、キュー出しから仕事を学び始めた。いくつかの現場の仕事を経験した後、1958年にテレビドラマ『橋づくし』(原作・三島由紀夫)で初めて制作を手掛けた。それ以降プロデューサーとして原作者のドラマ化の許可などを交渉したり、キャスティングに奔走するようになる。それまでTBS嘱託社員だったのが正式に社員になった。
ちなみに原作者などの交渉でOKをもらうコツを聞くと「交渉は、とにかく一生懸命やること。『私はこの企画をやりたい。そのためにはあなたのOKが必要なんです』と素直な気持ちを相手に伝えるしかない」と語っている。また交渉には、必ず一人で行くことにしている。本人曰く「もし複数でお願いにあがっても全員が同じ気持ちとは限らないし、本当の熱意が伝わりにくい」と
その後は、テレビドラマのプロデューサーとして、橋田壽賀子や平岩弓枝らとタッグを組み、「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「渡る世間は鬼ばかり」など、多くのヒットドラマを世に送った。退職後、フリーとなった後は舞台演出なども手掛けている。
長年の活動により、過去に3度ギネス世界記録に認定されている(1985年に「テレビ番組最多プロデュース」(1,007本)、2014年に87歳342日の「世界最高齢の現役テレビプロデューサー」、2015年に舞台初演作演出本数183作品)。
プロデューサーとディレクターの違いはなに
プロデューサーとは
番組の最高責任者です。番組制作に“最初から最後まで”関わる責任者です。放送今日では部長など管理職に近い人が多い。
番組内容を企画し、予算を立てて企画を通し、ときには予算を出してくれるスポンサー探し、お金の工面しながら、出演者のキャスティングや制作スタッフの検討・決定も同時に進めます。さらに、最終的な素材のチェックも大切な仕事です。
ディレクターとは
プロデューサーとともに番組を企画し、プロデューサーが立てた予算・スケジュール内で番組が完了させるのが仕事です。制作現場では“現場監督”として出演者やカメラマンや音声などスタッフへの指示をするのが仕事で、取材先の交渉から段取りロケ、編集までこなします。
1963/1 鉄腕アトム 1963年から1966年にかけてフジテレビ系で日本初の30分テレビアニメシリーズとしてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率27.4%を記録しその後、世界各地でも放映された。1980年に日本テレビ系でカラー版の『鉄腕アトム (アニメ第2作)』が制作された。
第1話 『アトム誕生』
2030年の東京。天馬博士は人の心を持つ製作中のロボットに、交通事故死した息子・トビオの名を。ワルプル・ギス伯爵はその設計図を盗撮させ、オメガ因子を加え複製ロボット・アトラスを作る。天馬は首相の処分命令を無視しトビオを完成させるが、トビオはアトラスと同調。回復してロボット処理車の暴走を止める。
1963 NHK初の「大河ドラマ」
『大河ドラマ』は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKによる歴史ドラマシリーズの総称。 日本史上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇が多いが、ドラマオリジナルの架空の人物を通して時代そのものを描き出す作品もありました。
1963年4月7日から同年12月29日までNHKで放送された大河ドラマ第1作目が『花の生涯』です。原作は舟橋聖一が1952年から1953年まで『毎日新聞』紙上で連載した歴史小説『花の生涯』で、幕末の大老・井伊直弼の生涯を描いた作品。
現在と異なり、基本の放送時間は日曜日の午後8時45分 - 午後9時30分であった。当時の日本の多くのテレビジョン番組と同様、映像はモノクロで、音声もモノラルです。松竹の専属俳優だった佐田啓二が初めてテレビドラマに出演した作品です。
1963 20万円を切る16型カラーテレビが発売されましたが、普及台数は白黒1,600万台、カラーはわずか5万台ほどでした。この年の11月23日、初の日米間テレビ宇宙中継の実験放送がありましたが、奇しくもその放送でケネディ大統領の暗殺現場が中継されたのです。
1964 TV「トムとジェリー」「ひょっこりひょうたん島」米ではGIジョーが誕生
アカデミー賞も受賞した世界一有名なネコとネズミを描いた名作アニメーション。
食べること、寝ることが生きがいの飼いネコのトム。
家に住み着いてしまったネズミのジェリーを追いかけることに執念を燃やしているけれど、いつも天才的な策略家ジェリーにやられてしまいます。今日もジェリーを捕まえるワナをしかけますが、やっぱりジェリーに裏をかかれてしまうトムでした。
『ひょっこりひょうたん島』は、NHK総合テレビジョンで放送された人形劇です。
サンデー先生と5人の子供たち(チャッピ、ダンプ、プリン、博士、テケ)がひょうたん島に遠足にやってくる。ひょうたん火山が噴火し、急いで避難しようとするが、あと少しのところで橋が壊れ、ひょうたん島が漂流を始める。
1964 東京五輪「テレビ五輪」
1964年には東京オリンピックが開催され、これがテレビの世帯普及率を大きく押し上げる契機となりました。1963年に1500万件だったテレビ受信契約件数が、1967年には2000万件を突破しています。
1965 オバケのQ太郎ブーム 「ジャングル大帝」(初のカラーアニメ)
1966~ 怪獣もの人気
1966 「ウルトラQ」「初代ウルトラマン」「巨人の星」
『ウルトラマン』は、1966年7月17日から1967年4月9日まで、TBS系列で毎週日曜19:00 - 19:30(JST)に全39話が放送された、TBS・円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローの名称です。
テレビシリーズがスタートするや否や『ウルトラQ』を凌ぐ人気番組となり、本放送時の第1話の視聴率は34.4%平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%(1967年3月26日放送の第37話。ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録。
テレビシリーズの放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録した。海外でも1970年代から100を超える国・地域で放映されてきた
特撮番組
特撮が生まれたのは日本の高度成長とも重なる昭和中期(1954~70年ごろ)、円谷英二特技監督のつくりあげた特撮映画は世界で評価され、数多く輸出された。そして各国で後に映像クリエイターとなる子どもに感動と刺激を与えていった。
初代『ゴジラ』が封切られた1954年から円谷英二が亡くなる1970年ぐらいまでが、最初の特撮黄金期と言える。そして1970年代後半まで、「特撮」は児童向け映像文化の中で「アニメ」とは同格で、相互に影響を与えあって進化をとげていった。
ルーツである『ゴジラ』は1954年に東宝で製作され、大ヒットした映画だった。企画から公開までは約半年しかなく、特撮を担当した円谷英二は短期間で撮影するために、1930年代から海外では巨大生物を描くときの定番手法だったコマ撮り技法をあきらめざるを得なかった。代わりに採択されたのが、「ミニチュアセットの都市風景の中で、ゴジラのスーツを着た俳優が演技する」という手法だ。
その後、怪獣キャラクターもバリエーション豊かになった。高速で空を飛ぶ翼竜に似たラドン。南海の孤島から来た巨大な芋虫が東京タワーに繭をかけ、蛾に変化するモスラ。
三本の長い首に巨大な羽を備えた金色の龍キングギドラ。怪獣以外にも、全面核戦争の恐怖や気体・液体に変形する人間など豊かな題材を得て特撮技術も発展し、他社も巻きこんで「特撮映画」が一大ジャンルに成長していった。
そして特撮はテレビ放送が始まると。『鉄腕アトム』から3年後の1966年、「特撮の神様」円谷英二が自ら興した円谷特技プロダクションで、空想特撮シリーズ『ウルトラQ』を製作、これが放送されるや爆発的な大ヒットとなったのだ。「本格的特撮で怪獣を描く番組は予算・時間の面からテレビでは無理」という固定観念は覆り、「怪獣ブーム」が加熱して各社がTV特撮番組を製作し始めるた。
米番組 奥様は魔女 タイトルはBewitched キャストElizabeth Montgomery
1966/12 魔法使いサリー 魔女っ子もの第1号かつ日本初の女の子向けアニメ
東映アニメ 呪文「マハリクマハリタ」 横山光輝
→69 ひみつのアッコちゃん 魔法のコンパクトに呪文「テクマクマヤコン」
日本のアニメーション
日本のアニメが海外に広がるきっかけになったのは、1963年にアメリカで放送された『鉄腕アトム』だといわれています。『鉄腕アトム』は感情を持っている少年ロボットのアトムが活躍する物語で、英語での題名は『ASTRO BOY』です。高い視聴率を誇り、多くの人に親しまれました。では、なぜアニメは他のドラマと比べ世界に受け入れられたのか。
子どもから大人まで楽しめる作品が豊富にあるのも、日本のアニメが海外で愛される理由です。
その理由としては、日本のアニメには複数のジャンル、ファンタジーやSF、恋愛、ホラーなど多彩なジャンルがあるからと言われます。
また、歴史戦争など、日本に関する知識を深めるアニメが存在するのも特徴です。
幅広いジャンルのなかから自分に合った作品を探せるため、世界各国に日本のアニメに関心を持つ人がいます。
日本のアニメは、物語の設定やキャラクターのバリエーションが豊かです。たとえば、『ソードアート・オンライン』というアニメでは、登場人物が仮想現実の世界でデスゲームを繰り広げます。海外では、ヒーローと敵が戦うバトル系のアニメが多く、『ソードアート・オンライン』のような設定の作品はあまり見られません。幅広いジャンルから自分好みの作品を選べるうえ、独特な世界観に浸れるのが日本のアニメの魅力といえるでしょう。
また、日本のアニメは作画の質が高く、細部にまでこだわって繊細に描かれています。キャラクターの表情や細かい動き、建物の描写のリアルさなどに惹きつけられる人も多いでしょう。
また、日本のアニメのBGMも海外で注目されています。ピアノやオーケストラなどを用いた壮大な曲が多く、印象に残りやすいためでしょう。BGMには、登場人物の心情を表現したりアニメの雰囲気を印象付けたりする効果があります。
日本のアニメのBGMは世界的に有名な曲も多く、「アニメは観たことないけれどBGMは知っている」という人も珍しくありません。
さらに、海外の多くの人に日本のアニメを広めたのが、スタジオジブリの作品です。スタジオジブリのアニメ映画は「ジブリ作品」、または監督の名前から「宮崎駿作品」といわれています。『魔女の宅急便』や『天空の城ラピュタ』などの作品を観た人もいるでしょう。また、『千と千尋の神隠し』は、第75回アカデミー賞長編アニメーション部門を受賞し、世界各国で高い評価を受けました。
一億総白痴化
TV放送のことを「一億総白痴化」社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉として言われました。
1969~ 水戸黄門
TBSのナショナル劇場(後にパナソニック ドラマシアター)で放送された時代劇『水戸黄門』は、1969年の放送開始された。
1971年になるとNHKのカラー受信契約は1000万件を突破し、1954年には世帯普及率でカラー85.8%、白黒48.1%と完全に逆転し、急速にテレビのカラー化が進み1975年には、カラー受信契約が2000万件を突破してカラーの時代を迎えることになりました。
バラエティ番組
テレビ放送が始まって60年。その歴史のなかでも1970年代の土曜8時台には伝説の人気番組が数多く誕生。後に“土8戦争”という言葉も生まれるほど視聴率争いが白熱した。
1970年代のはじめ、土曜8時台に人気を二分していたのが『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)とドリフターズの『8時だヨ!全員集合』(TBS)。
『世界は笑う』は1968年にスタート。人気絶頂のコント55号が繰り広げるコントを中心に歌や漫才、落語などを織り交ぜた番組だった。一方の『全員集合』はその牙城に迫るべく翌1969年に放送を開始し、たちまちファンを獲得。視聴率を逆転された『世界は笑う』は1970(昭和45)年3月をもって放送終了となった。
1972年、NHK『ステージ101』は土曜の7時20分に放送時間をお引っ越し。『お笑いオンステージ』が土曜8時の顔となった。笑福亭仁鶴と三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗のてんぷくトリオが出演する公開バラエティで「減点パパ」などのコーナーをご記憶の方も多いのではないだろうか。人気番組となった『お笑いオンステージ』もまた翌年には放送時間を変え、後番組として『ワンマンショー』などを同時間帯に放送した。
1970 CM
1971-83 日本テレビ「スター誕生!」でチャンスをつかむ(第一号森昌子、つづいて桜田淳子、山口百恵)
『スター誕生!』は、1971年10月3日から1983年9月25日の12年間に亘って放送された、日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組である。略して「スタ誕」(スタたん)。全619回。
番組の企画は審査員の一人でもある阿久悠で、日本テレビ側の一般家庭で普及し始めたカラーテレビの特性を生かして「テレビマンの手でスターを生み出したい」との思いも相まって1971年に『スター誕生!』が始まった。
初回の視聴率は4.7%だったがその後視聴率が上昇し始め、1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
1971 アイドルに観客が熱狂、カメラが近付いても逃げずに反応する時代に。阿久悠氏によると、 71年の天地真理の登場から 観客が熱狂、男の子も。朝日新聞98/8/11
1970年代を代表する伝説の番組が土曜8時台に
-
『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)
-
1968(昭和43)年
-
『8時だョ!全員集合』(TBS)
-
1969(昭和44)年
-
『ステージ101』(NHK)
-
1970(昭和45)年
-
『お笑いオンステージ』(NHK)
-
1972(昭和47)年
-
『ワンマンショー』(NHK)
-
1973(昭和48)年
-
『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)
-
1975(昭和50)年
-
土曜ドラマ(NHK)
-
1975(昭和50)年
-
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)
-
1981(昭和56)年
-
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS)
-
1992(平成4)年
テレビ番組制作会社の誕生
番組制作会社は、放送番組(テレビ番組、ラジオ番組)の制作を行なう会社のことで、古くは1960年代から、映画会社やニュース映画制作に携わった新聞社や映画会社が時代劇などのテレビ番組制作に関わっていた。1970年以前はアニメ、時代劇など映画会社制作を除いてテレビ局の社員のみでテレビ番組を制作していた。
その後、1970年にTBS局内の労働闘争を機に、萩元晴彦、村木良彦を含めた十数名を中心とするメンバーでTBSを退社し「テレビマンユニオン」を創立。この企業が独立系で業界最初の番組制作会社とされ、次々と製作会社がうまれた。
その中の大手の制作会社の場合、資本構造で放送局が大株主になっている場合が多く、公共放送、在京キー局、準キー局、基幹局等、テレビ局の資本が入った番組制作会社や芸能プロダクション自体がテレビ番組制作をしているケースも存在しており、様々なジャンルのテレビ番組の制作からスタッフ派遣も手掛けている。資本関係にあるテレビ局の編成上、役職の役員が出向して番組制作会社の幹部として所属する場合がある。
1982年(昭和57年)には任意団体として、「全日本テレビ番組製作社連盟」が設立される。主に、番組制作会社が制作するテレビ番組の著作権の扱いにおいて、その帰属に関してテレビ局との間で交わされる不平等な契約を是正する目的で立ち上げられた。加盟している番組制作会社だけで122社存在する。2015年(平成27年)10月時点では、日本のすべてのテレビ局のほとんどのテレビ番組が、番組制作会社によって制作されているのが現状である。
1972 初の乗り込み型ロボットのアニメ「マジンガーZ」(永井豪作)
1979 3年B組金八先生
『3年B組金八先生』は、1979年から2011年までの32年間にわたって、TBS系で断続的に制作・放送されたテレビドラマシリーズ。中学校の教員である坂本金八が、学級担任をしている3年B組内に起こる様々な問題を体当たりで解決していく。そんな彼の姿に心を打たれた生徒たちが考えを改め、人間として成長していく様子を描いている。
製作本数はスペシャルを含め185本。2011年3月27日放送のファイナルをもって物語の幕を閉じた。断続的ではあったが、放送期間32年という長期作品であり、『水戸黄門』や『渡る世間は鬼ばかり』とともに、TBSを代表するドラマ作品となった。
1980年代バラエティ番組
-
笑ってる場合ですよ!( フジテレビ)
-
たのきん全力投球(TBS)
-
今夜は最高!( 日本テレビ)
-
オレたちひょうきん族(フジテレビ)
-
欽ドン! 良い子悪い子普通の子(フジテレビ)
-
森田一義アワー 笑っていいとも!( フジテレビ) 笑っていいとも! ...
-
欽ちゃんの週刊欽曜日(TBS)
-
オールナイトフジ(フジテレビ)
1980年、ビデオ内蔵テレビ(テレビデオ)が発売され、テレビ視聴と録画・再生が1台で簡単に楽しめるようになりました。
1980CM
1982 音声多重放送(二ヵ国語放送・ステレオなど)開始
1984 ドラゴンボール
『ドラゴンボール』(DRAGON BALL)は、鳥山明による日本の漫画作品。
1985 おニャン子ブーム
おニャン子クラブは、1985年にフジテレビのテレビ番組『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ。
1985 初めて37型の大画面カラーテレビが発売され、各メーカーが大画面化を競うようになります。8月には、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落し、520人もの犠牲者を出すという大惨事が起きニュースを大画面テレビで見る人も増えることとなりました。
1988 ソウルオリンピックにあわせてハイビジョン映像の実験放送が行われ、標準テレビの約5倍の情報量や垂直の走査線の数が2倍以上となる鮮明な画像と、PCM音声放送により、臨場感豊かな映像と音楽を楽しむことができるようになった。
1990 ちびまる子ちゃん
『ちびまる子ちゃん』は、さくらももこによる日本の漫画作品、および同作品を原作とするテレビアニメです。
アニメ 「anime 一説によると、全世界で放送されているアニメの6割が日本製といわれるほどだ」
1990CM
なぜテレビは急速につまらなくなったのか。
本来、脚本はオーケストラにおける楽譜のようなもので、作品の骨格と言ってもいい。
黒澤明の映画『七人の侍』などの脚本で知られる橋本忍は、著書『複眼の映像』の中でこう書く。
〈 通常、私は脚本直しをした監督とは、二度と組むことはない。第一線級の監督は脚本の直しなどはしない。脚本を直すのは、腕のない二流もしくは三流監督の、偏狭な私意や私見に基づくもので、脚本にとっては改悪以外のなにものでもなく、私たちはこうした無断改訂の常習者を「直し屋」と呼ぶが、「直し屋」はそれが習性で、脚本が誰であれどんな作品であれ、改作をやめない。だから私は相手が「直し屋」と分かると、徹底して仕事を忌避する 〉
しかし、日本シナリオ作家協会の会員で、映画・テレビドラマの脚本を多数手がける脚本家の西岡琢也は、橋本のような仕事のやり方は今では通用しないと話す。
そもそも、日本のテレビドラマはテーマが限られている。ほとんどのドラマは恋愛物、あるいはサスペンスである。欧米では政治物やSF物なども人気を博しているが、なぜ日本ではそうしたドラマが作られないのか。
「民放のドラマの場合、CMのスポンサー企業の商品に、化粧品といった20代、30代の女性をターゲットにした物が多い。だから、それにふさわしい番組を作ろうという話になってくる。当然、難しい社会派の内容は見ないから、恋愛物だというふうになる。素材は限られてきますよね」(西岡)
一方、サスペンスの2時間ドラマの対象とされる年齢層はもっと上になる。
「あれは、例えば序盤に笑えるシーンがあって、10時くらいになると犯人だと思われていた人が死んで、最後は意外な人物が断崖の上で犯罪を告白するというふうに、構成のパターンが決まっている。
殺し方にしてもあまり残虐過ぎてはいけないし、2時間でまとめなきゃならないので、動機が入り組んでいると時間内に説明できないから駄目。そうなると借金、あるいは夫の愛人、遺産を巡る争いなど、いくつかのパターンに集約される。
なぜそういうドラマが量産されているかというと、単純に視聴率が取れるから」
また、原作を換骨奪胎するドラマも増えている。それが成功していればよいのだが、中には原作と「別物」になってしまうことも少なくない。
例えば松本清張。彼の名前は視聴率が取れるとテレビ局が判断しているのか、今なお彼の原作を使ったドラマは作られている。中でも『砂の器』は映画化、テレビドラマ化が何度も行われてきた。
『砂の器』の原作では、犯人は自身の父親がハンセン病であることを隠すために殺人を犯すのだが、1974年製作の映画化の際には、こうした設定が「ハンセン病に対する差別を助長する」として患者団体から抗議を受けた過去がある。2004年に中居正広(SMAP)の主演でリメイクされたときは、この「父親がハンセン病」という設定そのものが消え、作品から毒が抜かれることになった。
同じ松本清張の原作でも、時代設定が現代に置き換えられることもある。これはストーリーの都合というよりは、経費削減によるものだと前出の西岡は指摘する。
「2007年にリメイクされた『点と線』のように昭和30年代の街並みを再現したものもありましたが、普通はそこまでできない。お金を掛けられないから、現代劇にする。そうなると松本清張さんが描こうとした物語でなくなってしまうんですよ。
(文中敬称略、後編「大手芸能事務所に支配された『テレビドラマ20年史』」に続く)
それ以外の理由として考えられるのは、放送局の多くが自主制作をせず制作会社へ発注する請負構造の構造にもあると思われます。よって景気後退が続くと下請けに位置する制作会社の側にしわ寄せが集中することから、「3K職場」と言われる職場となって人が集まらない状況を作り出してしまったと指摘されている。近年はテレビ離れの流れを受けて、放送局は制作会社への外注を増やす一方で製作費を削減しているため、過酷な労働環境を背景とした番組の質の低下および、優秀な人材の流出、やらせ等が発生している。
しかも、多くの制作会社が各放送局の下請けをしてる関係で、制作内容に似たものが増えてるのも質の低下につながっていると言えます。
いつから「テレビ離れ」は始まったのか?なぜ?
調査を開始した1963年のテレビの受信契約数は1000万台を超えておりゴールデンタイム(19時~22時)の視聴率は75.4%。NHK『紅白歌合戦』の視聴率は81.4%と驚異的な数字を記録していた。1979年に着脱できるリモコン付きテレビが登場すると、視聴者が簡単にザッピングでテレビを番組途で切り替えるて見るケースも増えてきた。それにともない、バラエティ番組の数が増えていきます。理由は番組内にいくつも違う企画を入れることができ、途中から見ても楽しめるからで情報番組でも内容がよく分かるようにテロップが多く入るようになりました。短時間に次々と刺激が得られる番組が求められていったんです」(前出・鈴木氏による)
バラエティ番組の歴代視聴率トップは『8時だョ!全員集合』(TBS)の1981年2月21日放送で47.6%。クイズ番組では、『クイズ面白ゼミナール』(NHK)が、1982年9月12日に42.2%を記録している。
1995年には「ウィンドウズ95」が発売されネットの時代が本格的に始まった。その後定額制となり、動画コンテンツも増えて、娯楽としての役割を担うようになっていく。
2004年には紅白歌合戦視聴率が初めて40%を割りそれ以降の低下は激しくなります。2013年にはスマホを持つ世帯の割合は6割を超えPC、タブレット、スマホで、動画を好きなときに楽しむようになった。ゴールデンタイムの視聴率は15年間で10%も下落している
今では職場や学校でテレビ番組を話題にする習慣はほとんど残っていない。
夜にテレビをつける世帯はまだ6割いる。だが、その数が今後も下がり続けることが予想される。
テレビ放送は今後どうあるべきか、動画クリエーターと関係は・・
今までのテレビ番組は、ジャンル別、報道番組、教育番組、教養番組、娯楽番組の4種類に大別され、報道番組には、ニュース番組や情報番組が、教育番組には学校放送番組、子供向け番組、語学番組などが含まれていました。
近年の傾向として、「オフジャンル化」がみられる。番組ジャンル間の境界がなくなり、特定のジャンルに分類することが難しい番組が増加しています。とくにバラエティ番組の演出・編集手法を取り入れる傾向で、たとえば報道番組や教養番組であっても、スタジオセットや出演者、内容の構成、カメラワーク等の面でバラエティ番組に類似し、特定のジャンルに分類しづらい番組が増えなど大きく変化しつつあります。
テレビ業界はデジタル化や多チャンネル化、ネットの普及によって「放送と通信の融合」などと言われるようにメディア環境は大きく変化され、先行きが不透明状態となっています。国策として進められた地上デジタル化は特段の収益向上にはつながらないにもかかわらず、多額の設備投資が必要であり、結果的に経営を圧迫することになっているのが現状です。
また、インターネットの急速な普及と、とくに若年層で進みつつあるテレビ離れは、テレビのニュース・情報媒体としての影響力や存在感、そして広告媒体としての訴求力を相対的に低下させつつあり、こうした傾向は、日本のみならず世界の多くの国々で共通して生じている。
しかし、テレビは依然として多くの人々に親しまれており、放送局や製作会社は新しいテクノロジーに対応しながら、テレビ自体を進化させることで生き残りを図っています。
例えば、高画質や3D映像、インタラクティブなコンテンツなど、新しい技術を活用して、テレビの体験を向上させる試みがなされています。
つまり、テレビが完全に消滅するかどうかはわかりませんが、テレビ業界が残してきた放送産業や放送技術から学ぶべきものがあると思います。そして動画クリエーターの新しい感覚よって、新しい形態で次の動画産業の世界を作り出す可能性があると思います。
=============================================================================================
放送機材の歴史
1970年代後半 ビデオテープレコーダの普及が日本の家庭で始まる
1975 ソニーが家庭用ビデオベータマックス規格を開発、発売 =家庭用ビデオカセット「K-60」
1976 VHS(Video Home System)家庭用ビデオ規格を日本ビクターが開発 第1号機発売25万円
1977 松下電器産業(ビクター親会社、現在パナソニック)もVHSに参加。普及型ビデオデッキ「マックロード」発売し、VHS普及へ
1980年前後 ベータマックス方式 対 VHS方式 規格争い 13年かかり決着、ベータ敗退
1984年度 ベータ最盛期 カセット約5千万巻を出荷
1988 ソニーもVHS併売
1989 ソニーが米コロンビア映画買収 目的の一つは、以後の規格争いに勝つため(大賀氏)。→後のブルーレイではソニー・パナソニック陣営が東芝陣営を下した
2002 ソニー、ベータ方式のレコーダーの生産終了
2016/3 ソニー、ベータマックス方式のビデオカセットテープ(4種類)の出荷もついに終了。ベータ約40年の歴史に幕
1985 字幕放送 NHK、日本テレビ
1990 ハイビジョンテレビ発売
ハイビジョン Hi-Vision TV, a Japanese version of high-definition TV 30年ほど前からNHKが中心に開発してきた高精細度テレビ 走査線が1,125本で現行535本の約二倍。1991 試験放送始まる リモコン付きが普通に
通販番組 深夜のテレビ通販番組の人気に火をつけたのは、テレビ東京で94年。CMには総量規制があるが、ショッピング番組は各局とも生活情報番組の一種と位置づけているので、規制の枠外
1996カラーテレビ国内出荷、 1000万台超える
1996 薄い「壁掛けテレビ」 登場(PDP)
NHKも24時間放送に 97/4からは月~金も。2000/4/3 教育テレビも湾岸戦争→CNN有名に
米は四大ネットワークに 1941 NBC CBS ABC 1987 新興局FOX (Murdoch) ビバリーヒルズ アリー
米ケーブルテレビは各個人と契約するため、ある程度の過激な描写が許されている。ネットワーク局は子供も自由に見ることができるため、暴力や性描写が厳しく制限
英国でTeletubbies人気に
テレビ全盛期 「ザ テレビジョン」(角川書店)99正月合併号 テレビ雑誌最高の430万部(公称)に達する
インターネット普及
放送他チャンネル時代突入
最初の BS放送(アナログ) 衛星放送
1984/5 試験放送開始
1989 BS 1989/6 本放送 8月有料化
1998/2受信契約900万突破
1989 ■日本で衛星による本放送が開始 →2000年からはデジタル衛星放送も
1989/10 CSで放送をするため放送法と電波法改正。通信衛星 (tele)communications satellite
2001末 通信衛星でデータ配信の緩和によって。従来、放送は不特定多数が、通信は特定・少数が受信するものとされてきたCS放送により、BBCワールドなど多様な海外放送を家庭で見られるようになる(朝日新聞1996/5/2 衛星デジタルの時代が始まる)
1995 日本で「インターネット元年」 ウィンドウズ95発売などで普及へ
96/10/1日本でも衛星デジタル多チャンネル放送 →のちにスカパーに一本化
96.10/1開始 パーフェクTV 株主;三井物産、ソニー、トヨタ、NECなど
1997年 パーフェクTV 100チャンネル達成時のパンフ
97/12/1 ~ディレクTV
98/5/1合併でSKYPerfecTV!
98春 JSkyB =Murdoch
98/5/1合併でSKYPerfecTV!
CS300チャンネル近くに。撤退も相次ぐ
スカパーがディレクTV吸収
1998/11/1地デジ 米で地上波デジタル放送開始
1994 米、デジタル衛星放送開始
2000 BSデジタル本放送開始 高画質、双方向のデータ放送の一体受信
2002 110度CS開始。愛称「スカパー2」、その後に「スカパー!110」と改称→「e2」
旧名称「スカパー!110」「e2 by スカパー!」。そして2012/9までは「スカパー!e2」
1995のスカパー前身の放送開始当初は、多チャンネルのCS放送だから日本でも爆発的に普及するはず…と思われていました。しかし思いのほか苦戦。すでに普及したBS放送だけで満足している人々が多数だったのです。
そこで、スカパー社は考えました。「BS放送と同じ、東経110度軌道上に衛星を打ち上げて放送すればいい。BS放送を視聴している人々(すでに1000万世帯)が同じ(パラボラ)アンテナで見られるので、スカパーのお客さんも増えるに違いない」。従来のスカパーとはアンテナの向きが違うので、同じアンテナでは見られませんでした。110度CSデジタル放送サービスの名称は「スカパー110」でしたが、2007/2に「e2 by スカパー!(イーツー バイ スカパー!)」に変更されました。
110度CSデジタル放送サービスの名称は「スカパー110」でしたが、2007/2に「e2 by スカパー!(イーツー バイ スカパー!)」に変更されました。
2003/12 地上デジタル放送開始
●液晶に移行
2003~4 電機大手 ブラウン管の国内生産を相次いで中止、その後海外生産も中止
●大画面化 薄型の大型テレビ 価格低下 32インチ以上も当たり前に
2006/7 ハイビジョン対応液晶32型で14万円 船井電機が発売 →各社価格低下へ テレビの平均単価は2010/5 81900円 → 2011/5には 53800 と急落(BCN調べ)
薄型テレビ普及率5割超え
液晶やプラズマなど薄型テレビ普及率が09年、54.9%と初めて5割を超え テレビの世帯あたり保有数は横ばい テレビの平均使用年数は9.2年 ブラウン管テレビの普及率は83.5% 内閣府調査09/5/10
2004 LEDテレビ、ソニーが世界初で発売
2005/4 地デジ受信機1000万台突破
2006 「ハイビジョン元年」普及
2006/4 携帯でワンセグ放送
2006/10 省エネ法で小売事業者が表示:エアコン、テレビ、冷蔵庫に統一省エネラベル
2007 字幕放送義務化、原則としてすべての番組。放送法には「字幕放送をできるだけ多く放送する」という努力義務がある
2008/10/1 スカイパーフェクト・コミュニケーション社がJSAT社と宇宙通信社と合併し、株式会社スカパーJSATホールディングに
2008/10/1 CSにもハイビジョン登場
2009 「3D元年」 映像が飛び出して見える映画が盛況に (テレビの「3D元年」は2010)
人が右目と左目で見る像には微妙なずれ(視差)、その平面画像を右目と左目別々に見せられると、脳は合成して画像が飛び出す
1853 ロールマン(独)が、立体視の「アナグリフ」を考案。右目用・左目用別々に赤青での合成画像。実は古い技術。
1950年代 第1次立体映画ブーム ~56までに米国で約100本
1980年代 第2次立体映画ブーム 映画「ジョーズ3」「13日の金曜日パート3」など。しかし「赤青眼鏡」でみる方法で色の再現が劣る
→1990年代 デジタル化で映像の質が安定
2008 米国で3D映画が人気に、ディズニーは今後のアニメをすべて3Dにする方針に。
2009 (第3次立体映画ブーム) 映画の3D元年 2010 テレビの3D元年
2010「アバター」興行収入世界歴代1位 →3Dバブルへ
2009 3D対応のBD標準規格を19社(電機メーカー、映画会社)決定
2010/4 家電ではパナソニックが先陣、3D対応プラズマテレビとブルーレイディスクレコーダー販売
2010/6 ソニー、液晶テレビ。プレステ3でも3Dソフトへ
3D放送 日本では2010/4ケーブルテレビ最大手のジュピターテレコム。2010夏 スカパーJSAT
これらの3Dは専用メガネか必要。シャッターメガネで、右目用・左目用の画像が高速で切り替わるの合わせて右左シャッターが閉まる
2011/8/9 他社の3Dテレビも見られる3D用眼鏡へ
ソニー、パナソニック、サムスン電子と、3D用眼鏡メーカー「X6D」(スロベニア)が、3D用眼鏡の仕様を公開することで合意したと発表
2012までには3D熱は冷めた 眼鏡をかけて見るのは不便なのが大きく、普及せず コンテンツも少ない
2013にはテレビ界のキーワードは「4K」に
●テレビ自社生産から撤退 日本企業
2010 テレビの日本の内需と生産がピークに →2011年と2012年には壊滅的に急減
2010 パイオニア、テレビ生産から撤退
2012/8 日立製作所、テレビ生産から撤退
昭和31年から自社生産。キドカラーなどで知られたが、韓国メーカーなどとの競争が激化、また地デジ切替完了後は需要が落ち込むため、55年間続けてきた自社生産から、海外工場を含めて完全に撤退した。台湾メーカーなどへの生産委託に切り替え →2013年度にテレビ事業の赤字が解消
2013年度 三菱電機が自社生産をやめ、すべて他社委託
2014/2 ソニーテレビ事業を分社して子会社へ (パソコンも撤退 )
2014/10/26報道 パナソニックが子会社の三洋電機の北米テレビ事業を船井電機に売却へ。2015中国とメキシコ撤退、委託生産へ
2015/1 東芝、海外での自社開発・販売から撤退発表。2011年度から赤字 →2015年 粉飾決算発覚 →2017にテレビ事業は中国のハイセンスに売却、テレビ向けのブランドとしては「東芝」「REGZA」として継続
2015 シャープが北米テレビ生産撤退。 2016 メキシコで液晶テレビを生産する子会社を中国の海信集団(ハイセンス)に売却し「シャープ」ブランドを供与
ソニーは復活
2018/4/1 22:00日本経済新聞 電子版 テレビ事業は2015年3月期に黒字転換し、収益が安定している
2011年7月24日 地上波アナログテレビ終了 = デジタル放送に切替完了 (BSも)
ただし、被災3県に限り延長 東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島に限り、2012/3/31まで延期(総務省)
改正電波法で。従来のアナログ専用のテレビは映らなくなった。それまでは、アナログとデジタルの両方式で放送。
BS (Wowowなど)もデジタル放送に完全移行、それまでのアナログチューナーなどは使えなくなった。
デジタル放送は、リモコン操作で天気予報などの情報を引き出せたり、インターネットとつないで買い物ができたりする
BS放送 全31チャンネルに(2012)
(1989にBSはアナログで開始)
2000 BSデジタル本放送開始 10チャンネル 高画質、双方向のデータ放送の一体受信
2010現在で有料2チャンネルを含む12チャンネル (そのほかに難視聴地域専用チャンネルなど)
2011/7 BSアナログ放送終了 = 周波数帯が空く
→電波監理審議会(総務相の諮問機関) が通販番組の急増に配慮して広告放送を全体の3割以下に抑える基準などで審査し、新チャンネル選定 (朝日新聞10/10/14)
2011/10 11チャンネル追加 携帯電話電波との混信の懸念が解消したため、追加で募集
2012/3/17 全31チャンネルに拡大 (追加は7チャンネル、うち有料のディズニーアニメチャンネルを含めCS放送から移行が5チャンネル)
2011~2012に開局したのは19チャンネル、うち有料が16
外資による初の無料放送 = Dlife (米ディズニー系)
■総チャンネル数は300超え
2012/3 日本の総チャンネル数は、地上波、BS、CSで300超え
2014/5/31にスカパープレミアムサービスでは標準画質放送を終了
●「テレビ」放送の種類
・地上波
・BS
・CS
スカパー! プレミアム 124/128度
スカパー es 110度
・携帯端末向け NOTTVが2012/4開始 有料
・(インターネット)
次世代TV 2000/4共通規格決定。BS, CS受信、クレジットカード挿入口、番組検索
スマホ時代
2006/4 携帯でワンセグ放送
2009, 2010に日本でもスマートフォンが一気に一般化 テレビを持ち歩いているのと同じ状況に
2011/9 米動画配信Huluが日本で配信開始
NTTドコモがスマホ向けの動画配信「dビデオ」。エイベックス・エンタテインメントと組み
2014/2 日テレ、Huluの日本事業を買収。Huluはブランド名や技術を日テレにライセンス供与
2014/1 民放大手5社、スマホ向けに動画配信サービス
2016/4/11 アベマTV開局
テレビ朝日(40%)とサイバーエージェント(60%出資)が設立したスマホ向けインターネット放送局 他の動画配信サービスと異なり、テレビではなくスマートフォン主体で、しかも無料(CMがある) 200ほどのチャンネル データ通信料の上限がすぐ来てしまうので、スマホではWi-Fi必須
2016/4 NTTドコモ系の動画配信サービス「NOTTV(ノッティーヴィー)」が放送を終了
2018年度 日本の有料動画配信市場は1632億円へ増加予測、12年度に比べて65%増(野村総研による見通し2014)
ネット放送をテレビで見る時代に パソコンのようなOSを持ったテレビ テレビのスマホ化?
2007 アクトビラがテレビに配信開始 2008?? 大手レンタルビデオ店によるTSUTAYA TV
2009ごろにはいろいろな機種に機能搭載 YouTube、Skypeも
デジカメの画像をSDカードを通してデジタル・フォト・フレームとしても使えるように
2010/10/12 ソニーがGoogle TV スマートテレビ SONY INTRODUCES THE WORLD'S FIRST HDTV WITH THE ABILITY TO EFFORTLESSLY EXPLORE THE WORLD OF TELEVISION AND THE INTERNET WITH GOOGLE TV.
2011 スマートフォン(多機能携帯電話)に撮りためた写真や動画、音楽を無線で大画面に映し出すことができる。スマートフォンをリモコンと同じように使うこともできる(シャープ)
2018現在:ソニーとシャープは主要モデルのOSに「Android TV」を採用。パナソニックとLGエレクトロニクスなどは独自OS
YouTubeなどがテレビに取って代わるほどの巨大メディアに
2005 動画共有サイト「YouTube(ユーチューブ)」開始 →2006 グーグルが買収 テレビを見ない子どもも大人も増加
2013 プラズマ敗退、液晶のみの時代に パナソニックがプラズマ(販売不振)から完全撤退 2013/10/9報道
朝日新聞デジタル 「パナ、プラズマ子会社清算 負債5千億円 製造業で戦後最大」2016年11月1日05時00分
紙のような超薄型画面 2002パイオニアが0.2ミリのものを開発 液晶に代わる画面である有機エレクトロ・ルミネッセンス(EL)。服に貼り付ける・テレビやコンピューターの画面・電車の中づり広告など応用へ
「触れる」3Dテレビ
「3Dテレビに映った立体画像に、指先で触れているような感覚を味わえる新システムを、産業技術総合研究所(つくば市)が開発した。…指先の小型装置が細かく振動して触れているように錯覚させる。新感覚のゲームや手術のシミュレーション装置などへの応用が期待されている」 朝日新聞10/8/26p37
4Kテレビ
2011 東芝「55X3」発売 2012ソニー、2013シャープ(262万円) 高価な高級機
2013/6 ソニー、シャープ、東芝が相次いで4Kテレビを主力商品として発売 価格がやや下がる
背景としては、50インチ以上の大画面のテレビが人気になっていた。放送普及などは遅れているため、4Kアップコンバートを前提。つまり4Kテレビは、大画面テレビで「ハイビジョン放送をよりきれいに(4倍きれいに)見ることができるテレビ」
「ハイビジョンで十分」「3Dと同じで普及しない」「4Kの後は8K放送も控えているので、4Kは待ち」といった意見も
4Kとは:およそ4,000×2,000ドットの解像度のもの。Kは「千」のこと。フルHD(1,920×1,080ドット)の4倍である3,840×2,160ドットの解像度がテレビでは主流。デジカメ画素数にすると829万画素でしかない。映画ではかなり4K化が進んでいる。
4K Ultra HD、略して4K UHDとも。4K video will sport a resolution of 4,000 x 2,000 pixels
NHK中心のスーパーハイビジョン(SHV)計画についても、4K/8Kを含めてSHVと呼ぶようになった。国際電気通信連合(ITU)では、4K/8Kテレビを「UHDTV」と命名
主な出典:AV Watch 「注目高まる「4Kテレビ」の現状と課題 満足度の高い大画面への要求が4K化を後押し」2013/7/9
2018/6 4Kテレビ出荷 シェア5割超え
2018/12/1 4K放送が本格化 計16チャンネルに
主にBS。「4K・8K対応」のマークが付いた機材が必要。従来のハイビジョン放送はそのまま続く。
・大型テレビしか売れない?時代に
小型テレビは、従来は寝室・個室向けに売れていたが、2010年代にスマホ・タブレットに置き換わった
大型テレビは、リビングルームように引き続き売れている
・シェア状況
ソニー、シャープ、パナソニック、東芝による寡占だった
→2018~中国系メーカーが伸びる
・ハイセンス(Hisense) 東芝のテレビ事業を買収したが、「ハイセンス」としても展開
・「TCL」 2019 日本参入 テレビで世界シェア3位
・有機ELが半数に
韓国のLGディスプレーがすべて生産している
暗いのが弱点だったが、2019にかなり改善
2020計画 スーパーハイビジョン放送開始。ハイビジョンの16倍の画素。 NHK放送技術研究所が1995研究開始
「放送」から「通信オンリー」へ?
2017/4 YouTube( 米グーグル傘下)が、有料テレビ市場へ進出
米国で地上波などの番組をネット配信する「ユーチューブTV」を開始。米国外での展開も視野